池上秀志

2018年6月22日6 分

夢=職業ではない

最終更新: 2021年10月16日

 映画つながりで前々から書こうと思った題材を思い出したので、この機会に書こうと思います。今回題材とする映画は『ミリオンダラーベイビー』という貧しい家の出身で13歳の時からウェイトレスとして働いている31歳のアマチュアボクサーの物語です。

 この主人公のボクサーマギーは優秀なトレーナーに何度も諦めたほうが良いと言われるものの、諦めずにトレーニングを続けやがてトレーナーも根負けしマギーを指導するようになります。「私はとてもタフな女だと言われています」と売り込むマギーに対して、’’Tough ain’t enough’’ (タフだけじゃ不十分だ)と返すところが、私がこの映画で最も好きなシーンであるとともに私自身競技をやっていて常々思うことですが、この記事で取り上げたいのはここではありません。

 ウェイトレスとして働くマギーが、ミリオンダラーベイビーへと上り詰めていくストーリーを見て多くの人は、これは映画ならではの話であり、現実ではないからこそこのような話が面白いと感じるのかもしれません。しかし、これは決して空想だけの話ではありません。この話自体はフィクションですが、このようなストーリー自体はあり得る話です。と言うより、探せばいくらでもあるでしょう。

 多くの人にとっては夢=職業です。そして、いわゆる会社員や公務員として働き始めた後は夢を過去のものとしてみなします。「いや私は部長になるのが夢だ」と言う人もいますが、それは夢と言うよりも理想的な現状である場合がほとんどです。その人が本当にやりたいことではない場合がほとんどです。

 人が自分の可能性を限定してしまう第一歩は「自分は○○である」と限定することから始まります。そして、この○○に該当するものが職業である場合がほとんどです。「私は会社員です」、「私は医者です」、「私はウェイトレスです」などなど・・・

 そして、人間の心理のメカニズムとして自分の現状に合致する情報しか認識できなくなります。詳しくはスコトーマの記事に書いていますので割愛しますが、人間の心理のメカニズムとして自分の信念、思い込み、自我などに相反するものは認識できません。ですので、「自分は物流倉庫で働いている派遣社員です」と自分を限定した瞬間からそれ以外の情報は入ってこなくなります。でも別に「物流倉庫で働いているけど夢はボストンマラソンで優勝することです」でも良い訳です。ところが、たいていの人はそうは思えません。「ボストンマラソンで優勝したいけど、物流倉庫で働いている自分」というものの現状に負けてしまい、やがて「物流倉庫で働いている自分」が勝ちます。そして、「物流倉庫で働いている自分」に相応しい将来(これも空想にすぎないのですが)に強いリアリティを感じます。そして、一旦「物流倉庫で働いている自分に相応しい将来」に対して強いリアリティを感じるとそれを達成するのにふさわしい情報を集め、それに不必要な情報(例えば、ボストンマラソンで優勝するための方法)は全てシャットアウトされてしまいます。これがこの映画の主人公マギーのような人がなかなか出てこない理由です。

 但し、割合的には少ないのですが、探せばこういう人はいくらでもいます。見つからないのはやはりあなたが職業=その人のアイデンティティと思い込んでいるからです。

 このような思い込みは「私は会社員である」というような思い込みに限定されず、通常はもっと細かく自分を規定しています。「私は年収400万円の会社員である」、「私は部署で三番目の営業マンである」、「私はベストタイムが2時間10分のマラソンランナーである」などなどです。このような思い込みに支配されているのでなかなか自分の現状の外側に出ることが出来ません。現状の外側に出られたと思っている人も大抵は課長が部長になったというようなケースであり、これは理想的な現状です。

 副業と本業、プロとアマチュアという区別も本来必要ないように思います。先進諸国のランナーの場合、ランナーとしてもお金を稼ぎながら、それ以外の仕事でも十分にその人の能力を発揮している人はいます。またランナーに限定しなくてよいのであれば、一人で複数の仕事をこなしている人は私の周りには普通にいます。

 産業革命以降、実存に対する不安というものが人々の間に蔓延してきました。産業革命以前は大工の家に生まれたら大工、農家の家に生まれたら農家、そしてある程度の年になったら近所に住むパン屋のメアリーと結婚するというようなある意味誰もが自分が何者であるかが明らかであった時代です。

 日本に関して言えば、自分が何者であるかが不確かになるのは集団就職が終わり、所得倍増計画も終わり、農業基本法が制定されて人々の生活の中に様々な選択肢が増えた1970年以降かなと言うイメージですが、イギリスの1900年代初期の文学作品を読むとこの自分が何者であるのかという不安が描かれた作品が散見されます。

 戦前・戦中・戦後と活躍したサルトルやカミュの小説にも同じようなテーマを見出すことが出来ます。

 人は自分が何者であるのか、自分にどのような能力があるのか、自分にどのような可能性があるのかを限定するのはその方が心地良いからです。自分未知の世界や領域へと挑戦して失敗するととても傷つきます。それが成人した後であれば、なおさらです。その変わり、無意識の力がフルに働き創造性や独創性を発揮して自分の現状と理想の間にある溝を埋めようとします。

 自己ベストが2時間13分だから、2時間13分で走れればいいやと思っている人は2時間13分で走っても傷つかずに済みます。それどころか、ハッピーだと思います。しかし、その代償として自分が持つ可能性を放棄することになります。

 『ミリオンダラーベイビー』の中では、常に現状の外側に基準を置いているマギーに対して周囲は否定的な見方しかしません。これはそのような人々が冷たいからではありません。人間は自分の現状の外側にあるものに対して、不快な感情を抱くようにできているのです。そして、多くの場合初めは似通った現状を持つもの同士が集まります。ウェイトレスならウェイトレス同士でつるむのが普通です。もしくは年収400万円の人はたいてい同じくらいの年収の人とつるむものです。そしてその中から誰かが現状の外側に踏み出そうとすると、周りは寄ってたかったその人間を現状の方に引きずりおろそうとします。これも悪気がある訳ではなく、無意識の力が働いてこうなるのです。

 『ミリオンダラーベイビー』の中でマギーはそのような周囲の冷たい反応に負けずに、前に進んでいきます。そんなマギーがとても好きです。

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