こんばんは!
本日は何の日かご存知でしょうか?
齢を重ねると「最近の若いやつらは・・・」と言いたくなるのはやまやまですが、さすがに今日が終戦記念日であることはご存知だと思います。実際には、玉音放送の後も満州、中国、北海道、樺太、占守島などの北方領土、フィリピンなどなどで戦闘が繰り広げられ、米ソ、八路軍、外蒙軍などとの戦闘が続きましたが、一応本日8月15日が終戦記念日となっております。
そんなこともあり、2年に1回くらい書いている終戦記念の短編小説、今年は「ケニアと秘密機関獅子」というタイトルで書かせて頂きました。
そもそもですが、あなたはあの大東亜戦争でケニア人と日本人が戦争をしたという史実をご存知でしたか?
そして、日本の諜報機関がインド、ミャンマー、インドネシア、マレーシアなどのアジア諸国の独立に大きな役割を果たし、その流れがアフリカにも普及したという事実をご存知でしたか?
アジアでは光機関、南機関、岩畔機関、F機関といった諜報機関(特務機関)が有名ですが、アフリカで活動を展開した秘密機関獅子の存在をご存知でしょうか?
秘密機関獅子とケニアの部族カレンジンたちの運命や如何に?
ケニアと秘密機関獅子
「ここーはーお国―を何百里―遠―くはなーれーてー満州のー」
「何百里じゃすまへんやろ。満州でもないし」
「ちょっと何言ってるか分かんないです」
ご機嫌に歌う深澤中佐に私はすかさずつっこんだ。なにせここは祖国日本から1万キロは離れたケニアのエルドレットである。そして、深澤もいつも通りの返しをしてくる。
「渇いた土埃は満州に似てるんですけどね」
「まあ、それはそうやな。ってお前行ったことないやろ」
「まあ、そうなんですけど。見渡す限りの渇いた赤土にもそろそろ飽きてきましたね」
「せやな。まあでも、果物は安くでたくさん食べられるし悪くはない」
ここケニアではバナナやマンゴーがいくらでも食べられた。ただし、日本のマンゴーのようにブランド化され、甘くみずみずしくなっている訳ではない。身の部分が少なく、種の大きいマンゴーである。味は美味しい。
「ところで、なんで我々はこんな辺境の地に送られてきたんですかね?」
行けと言われれば、どこにでも行くのが軍人の定めではある。今回の任務は極秘中の極秘であるので、任務内容は私にしか知らされていない。とは言え、我々は共に東部第三十三部隊、またの名を陸軍中野学校と呼ばれる諜報員養成所の出身、任務の内容はなんとなく見当はついているはずではある。
「そろそろお前にも今回の任務内容を話しておくか。どこから話せば良いかな。援蒋ルートについてはお前も分かってるよな?」
「ええ、米英が蒋介石政権を支援するために、金、武器、その他の支援物資を送っているあのルートのことでしょう?」
「その通り。ソ連が毛沢東率いる共産党を支援し、英米が蒋介石を支援し、我が国は中国においては汪兆銘を支援し、日露戦争で権益を得た南満州鉄道のあたりを石原莞爾さんが制圧、満州国を建国、更にその周辺には軍閥や馬賊、匪賊と呼ばれるようなやくざ集団が跋扈し、ドイツはドイツで中国内での利権を持ち、中国大陸は今大混乱になってる。対ソ防衛に関しては、満州に駐留する関東軍が引き受けるとして、米英からの援蒋ルートも遮断しないと、日支事変の収束も難しく、泥沼化してきた。
一度、ドイツが仲介に入ってほぼほぼ講和条件がまとまっていたが、その後日本は首都南京を陥落、講和条件は五分五分の条件から、日本有利の条件を申し入れたが、蒋介石がこれを拒否、日支事変は泥沼化した。
その間、日本は米英に再三再四特定の勢力に肩入れすることのないように呼び掛けてきたが、米英はこれを受け入れず、寧ろ日本に対する経済制裁も実施してきた。そこで、米英に宣戦布告し、大東亜戦争が始まった」
「それは分かってます。それと今回の任務とどう関係あるんですか?」
「対英戦争を遂行するにあたり、イギリスの国力を疲弊させることと、アジアから白人を追い出し、アジアをアジアの手に取り戻すというイデオロギーの実現のために、マレー、ジャワ、ビルマ、インドらで我々の先輩方が様々な工作を実施し、現地人にイギリスからの独立を呼びかけ、日本も武器を供与し、軍事教練を施してきた。
また、現地の分裂する独立志士たちの間を取り持ち、くっつけることもしたし、ドイツにいたインド独立の父チャンドラ・ボースを日本に呼び寄せることもした。この戦争は様々な勢力が絡み合った国家総力戦の様相を呈している。同盟国のドイツは地理的にも遠く、日支事変の初期にはドイツは中国にお古の戦闘機を売りつけていた。また、ユダヤ人政策に関しては、人類平等を旨とする八紘一宇の思想を持つ日本には相いれないものがあり、あまり連携が取れていない。
そんな状況の中、如何に同じ有色人種であり、欧米からいじめられているアジアの人々を親日にするかで、対英戦争の趨勢が変わるんだ」
「それも分かっています。岩畔機関、F機関、光機関、南機関らがそれらの工作にあたっているのでしょう。実際に独立の機運も高まっているようですし、何よりもアジア人が白人に勝てるということを実際に示すことでアジアの人たちの考え方も変わってきていると聞いています。
インドネシアにおけるオランダの植民地支配もわずか11日間で終わらせ、アジアの人々の気運は変わってきていると聞いています」
「ところがだ。イギリスがビルマにケニア人を送りこんで来ているのを知っているか?」
「まさか?ケニア人になんのメリットがあるんですか?」
「イギリスの側に立って日本と闘っているインド人もビルマ人もいる。一体彼らに何のメリットがある?」
「何のメリットもないけど、闘うことを強制されている。そんな感じでしょうか?」
「早い話がそういうことやろ。どこの国でも前線に立つ兵士はなんかようわからんままに前線に送られて戦わされる、もしくはわずかな給料や植民地における奴隷の中でもちょっと上の地位につけてもらうために彼らは闘う。ケニアでも強制的に徴兵しつつも一応白人兵士の3分の1程度の給料はもらってるみたいやな。頑張り次第では軍曹までは階級も上がる。
ただ、軍内での黒人と白人の差別は激しいらしいぞ。まあ、アジアにおける白人たちの有色人種に対する扱いと同じようなもんや」
「なるほど、そういうことですか。しかし、戦線が膠着しつつあるビルマにケニア人部隊が送り込まれると厄介ですね」
「イギリスの方もマレー、ビルマで大損害を出しているから、これ以上本国の人間の犠牲者を増やしたくない。だから、ケニア人を送り込もうとしている。彼らが死んでもイギリス人は痛くも痒くもないということだ。そこで、日本もケニアで独立運動の機運を高め、国内をかく乱し、武装蜂起し、それを鎮圧するためにイギリスが軍を出せば、イギリスの国力を分散させることが出来るというそういう算段だ」
「なるほど、日露戦争の時に明石元二郎大佐がロシアの西側で動乱を起こし、ロシアの兵力を分散させたのと同じことをするんですね」
「早い話がそういうことだ。さて、どこから手をつけようか」
ケニア工作の難しさは現地人がその日暮らしであることである。まるで、未来に対する理想とか、未来の為に今動くということがない。今目の前で何が起きているのか、今お金をくれるのかくれないのか、今日の晩御飯はあるのかないのかというのが彼らの最大の関心ごとであり、独立運動などと何年かかるか分からないことに興味を示すとは思えない。また、イギリスのマスターたちに逆らおうとする気概があるかどうかも分からない。
また、ラジオや新聞も普及しておらず、なかなか現地の人たちに共通した情報を届けるということが出来ない。つまり、インドネシアでやったように、放送局をのっとってラジオ放送で偽の情報を流してかく乱するということも非現実的なのである。
では、ケニア工作がやりやすい点はなんであろうか?
実はこれも同様に彼らがその日暮らしであることである。この国では大抵の話は金でかたがつく。賄賂も横行しており、警察が通りがかる人を無理やり止めて、通行料を支払わないと通してくれないというようなことが普通にある。もちろん、支払わなければしょっぴかれる。違法なのだが、とにかく目の前の金の為ならなんでもやるのである。
従って、買収するのは簡単である。しかし、それが独立運動までに発展するにはイデオロギーの部分、つまり共通の思想や理念を持たないと難しい。そういった、理念の部分を根付かせることが出来るのかどうか。甚だ疑問である。
「ところで、武器の調達はどうするんですか?日本からの武器はいつどこで受け取る手はずになっているのでしょうか?」
「武器は現地で調達してこいだとさ」
「本当ですか?そんな無茶なことがあるんですか?」
「無茶なことをやり遂げるのは日本軍人のお家芸やろう。日露戦争でも、大東亜戦争でも出来る訳ないと思われたことをやり遂げた人はいっぱいいるぞ。その代わりじゃないけど、工作資金はたんまりもらってるぞ。これ見てみろ」
私は何枚もの紙幣を見せた。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ(笑)こんなんどう見ても偽札じゃないですか(笑)」
「その通り。偽札やで。しかし、ケニアの本物のお札と見比べてみ」
「あー、なるほど。本物のお札も偽札並みのクオリティですね」
「せやろ?どちらかと言えば、日本製の偽札の方がクオリティが高いくらいやで」
「これはどこで作ったんですか?」
「モンバサに日本の木綿商社がある。イギリス人が所有する綿花の奴隷農園から安くで大量に綿花を買いつけて、それで木綿を作り、ケニア人の衣服を販売してる会社がある。服まで加工しなくても、木綿にするだけでケニア人には人気なんや。マサイ族のあの民族衣装分かるやろ?あんな感じで加工されていく。そのうちの一つの工場に実は我々と同じ陸軍中野学校の出身者がいる。今井拓実さんという方なんやけど、その方が偽札を印刷して、我々がそれを受け取ることになってる」
「なるほど、だからこちらでの我々の表向きの身分は木綿商人なんですね」
「その通り。我々はエルドレットに木綿を売りに来た木綿商人」
「それで、どこから手をつけるんですか?」
「お前カレンジンって知ってるか?」
「はい。あのあれですよね。ケニア人ランナーが強い強いっていうけど、国際的な大会とかで活躍するのは人工のごく一部しかいないカレンジンがほとんどなんですよね?」
「あー、ストップ、ストップ。ケニア人選手が中長距離走で活躍するのは1976年にアイルランドの宣教師ブラザーコルムが赴任してからやな。マラソンに関しては欧米の資本が流れ込む1990年以降。ちょっと時代設定無視しんといてくれるかな?」
「あっすみません、すみません。今は1943年でしたね。それで何でしたっけ?あっカレンジンでしたね」
「そうそう、カレンジンやけど、カレンジンは伝統的には盗人の民族や。遠いところまで走っていって、イギリス人の農園から牛を盗んで帰ってくる。イギリス人の追手をかわし、遠いところまで走り切って村まで帰れば英雄とされた。そして、何頭も何頭も牛を持ち帰った男は日本でいうところのお金持ちになり、妻を何人も持つことが出来た。だから、今でも結婚する時には牛を送るのが習わしらしい。そして、そうやって優れた盗人が一人でたくさんの子供を作ったから、その民族は時を経て走るのが速くなってるらしい」
「ほうほう、それは面白い話ですね。で、そのカレンジンに何をお願いするんですか?」
「イギリス人の武器を盗んできてもらって、盗んできてもらったらお金を払うっていうことにしたらどうやろ。俺らが作った精巧な偽札なら、絶対にバレないし、こうなってみたら通貨発行権を手にしたも同じや。どんどん武器を盗んでもらってそれを高値で買おう。そしたら、成功したやつらはお金持ちになって妻も何人も持てる。やる気にもなるやろ」
「ケニア版渋沢栄一ですね」
「そやな。渋沢さんもタバコも吸わない、酒も飲まない、ギャンブルもしない、美女が仕事のモチベーションであれだけ会社作ったんやろ」
「妾持つにもお金かかりますからね」
「その通り。アフリカも日本も人間の営みは大きくは変わらんよ」
「まあ、同じ人間ですからね。それはそうとカレンジンっていうのはどこにいるんですか?」
「それは俺も分からん。人に聞いて回るしかないやろ」
私たちは早速町に繰り出すと、工作資金をちらつかせながら、片っ端から人に聞いて回り、カレンジンが住む地域を訪ね回った。もちろん、表向きの目的は木綿の販売である。
そうして、私達はなんとかカレンジンの部落を突き止めると偶然を装ってカレンジンの部落を訪れ、一軒の家を訪ねた。
「すみません」
「誰だ?」
出てきた男は初めて見る東洋人に明らかに警戒心を示していた。
そこで私は「ヤムネ」とあいさつした。
「チャムゲ」
と笑顔で答えが返ってきた。カレンジンの言語で、「元気ですか?」「はい、元気です」という挨拶である。
「実はこの地域に木綿を売りに来たんですが、もし良かったらちょっと商品を紹介させて頂けませんか?」
雰囲気が打ち解けたところで私は英語でお願いをした。
そう尋ねると男はすぐに笑顔になり、「カリブ、カリブ」と招き入れてくれた。どうぞ、どうぞということである。私はなるべく打ち解けられるように、英語とスワヒリ語を組み合わせて「それは良いスフリヤ(鍋)だね」とか「可愛いトト(赤ん坊)ですね」などととにかく、話をしてみた。
私はモンバサから来た木綿の商人で、このあたりの販路を開拓している、商品を広めるために、体のサイズを測らせてくれたら一着木綿の服を無料でプレゼントさせて頂くと話を進めた。
そうすると、男は喜んで体のサイズを測らせてくれた。男の名はウィルソン・キプサング。カレンジンにはキプタヌイとかキプロプとかキプコエチとかキプルトとかキプのつく名前が非常に多い。キプというのは生まれたという意味であり、例えば雨の日に生まれたらキプルトとか晴れの日に生まれたらキプルトとかそんな感じになっているそうである。それに加えて、イギリス人が覚えやすいように英語名がついており、ジェームスとかエヴァンスとかアランとかそういった名前の人がたくさんいる。
初めて見る東洋人に興味津々であり、色々な話をしているうちに、ミルクティーをごちそうになった。スワヒリ語ではお茶のことをチャイというが、チャイと言えば甘いミルクティーを意味する。なにせ家で絞った牛乳と地元でとれた茶葉と黒砂糖で作るのである。その味は格別であった。
ところで、ケニアに来て気づいたことが一つある。それは土地の区切りが非常に明確になっていることである。ケニアは大自然が残っており、文明らしい文明は田舎にはほとんどない。しかしながら、私が目にする土地は大抵は棒杭が立てられ、有刺鉄線が張り巡らされており、中には入れないようになっているのである。私はそこにイギリス人の土地権利に対する意識の強さを非常に強く感じた。
一方で、町を離れてさらに家がまばらにしかない村落に入っていくと、そこはイギリス人もあまり興味がなかったのか、手つかずの自然が残っており、そこに小さな小屋を建てて人々が住んでいた。カレンジンもおそらくイギリス人が興味を持たないような村の外れから出張し、牛を奪って牛と共に走って村落まで帰るのであろう。
私と深澤は世間話を一通りした後、チャイのお礼を述べて立ち去ろうとした。その時である。キプサングがおもむろに立ち上がって私を引き留めた。
「サー、実は子供に支払う学費がなくて困っているんだ。お金を分けてもらえないだろうか」
私は心の中でにやりと笑った。ケニア人は外国人に対して、非常にフレンドリーである。しかし、その心の中には少なからず外国人に近づいてお金を取ろうという気持ちがある。私はそれを見抜いていた。しかし、敢えて向こうから言うように待っていたのである。私は表情でさとられないように、少々面倒くさそうな顔をした。
ついでに言うと、本当に子どもの学費が払えないかどうかは分からないし、仮にそれが本当であったとしてもお金が手に入るやいなやお金が酒代に変わるやつもいる。
「うーん、それは大変だね。助けてあげたいのはやまやまだが、ケニア人は私をみるとお金をくれお金をくれとすぐに言ってくる。私も助けてあげたいのはやまやまなのだが、全員は助けられないので困っているんだ」
「サー、お願いだ。お願いだ。私だけでも助けてくれ」
私もこの真剣な表情に何度騙されたか分からない。お金を先に渡してしまうと雲隠れということはよくある。もちろん、公平を期して言えば、日本人にも困った時には泣きついてきて、もう用がなくなると連絡しても一向に音沙汰無しという人もいる。しかし、ケニア人のそれはあまりにも堂々としており、なおかつほとんど全員がそんな感じなので恐れ入り谷の鬼子母神という感じである。
私はしばらく考えているふりをした。そして、こう続けた。
「よし、分かった。それならこういうのはどうだろう?君たちはイギリス人から牛を盗んでくるのが非常に上手いと聞いたが本当だろうか?」
「あー、それはその通りだ。もしもお望みならばいつでも牛を盗んでくるから、お金をくれ。頼む」
「いや、俺が欲しいのは牛じゃない。イギリス人が持っている武器だ。あれを盗めないだろうか?」
そうやって話をふると突如として青ざめた。
「とんでもない。そんなことをしたら、殺されてしまう」
「じゃあ聞くが、牛を盗んでそれがバレたらどうなるんだ」
「殺されるか、手を切り落とされる」
奴隷の手首や足首を切り落とすのはベルギーが植民地にしているコンゴでも行われている。ベルギー人達は自分がそういうことをやっているので、潜在意識の中に常にそういう話がある。一度ベルギー側がナチスの連中がベルギーで子供たちの手首を切り落としているという報道を世界に流し、ナチスの悪魔化を図ったが、アメリカ人の調査でそれは真っ赤な嘘で反ナチスのプロパガンダであったことが後に判明している。
「それなら、牛を盗むのも武器を盗むのも一緒じゃないか。俺が言っているのは武器を持っているイギリス人を殺して武器を奪ってこいということじゃない。武器庫からイギリス人の武器を盗んできて欲しいんだ」
「サー、でも俺たちは武器がどこにあるかもわからないし、武器庫には鍵がかかっているはずだ」
ケニアでは日本ではあまりお目にかからない南京錠が色々なところで使われており、家の鍵も大半は南京錠であった。
陸軍中野学校の授業の一つに「開錠」というものがあり、錠前を釘の先端を折り曲げて開ける授業がある。深澤に至っては、その授業を受けた日に食堂に忍び込み、保管庫の鍵を開けると甘味品を盗み出して、私の枕元に入れてくれたものである。翌日の点呼では「内部での実演は禁止。現地任務に就いてから大いにやれ」と大目玉をくらったのであるが、今その現地任務の時が来たのである。
また、陸軍中野学校の実習には潜行演習というのがあり、我々は三方が原防空学校の全施設を秘密爆破すべしとの任務を受けた。もちろん、実際には爆破しない。私は本部の指令室に潜入し、チョークで23時45分見習士官潜入と書いて、帰ってきた。
ちなみに、三方が原防空学校の方には連絡入っていないので、向こうは通常通りの警備体制である。捕まると面倒くさいことになる。
そんな訳で、我々も月明りしかないケニアの夜にだだっ広い農園の片隅から潜入し、英軍の武器庫から銃器を盗み出すことは実はそんなに難しいことではないのである。ただ、帰り道は車やバイクを使わずに、物音立てずに長距離を走り去るのが最もバレにくいのであるから、銃器を担いで走ることになる。
こちらも男手が欲しかった。
「武器庫の鍵は私が持っているし、実は事前に潜入しているので農園の見取り図も武器庫の位置も把握している。俺もいくから一緒にいかないか?帰ってきたら、奪った銃の数に応じてお金を払うよ」
「いくらくれるんだ」
「銃一丁につき、500シリングでどうだ?」
「500シリングあれば、学費を差っ引いてもまだ3か月は暮らせる。本当にありがとう」
そういって、キプサングは手を差し伸べてきた。私はその手を握り返すとこう言った。
「もし良かったら、他の男にも声をかけてくれないか。他の男にも同じだけのお金を支払う」
こうして、我々は大規模な武器の略奪及び仲間の獲得に成功した。だいぶ武器が揃った頃には相手もかなり警戒するようになってきたが、なんと言っても頭数ではこちらの方が上回る。植民地経営では経費をなるべく抑えるのが基本政策だ。
従って、なるべく少ないイギリス人に武器を持たせてなるべく多くのケニア人に農園で働かせるのが基本である。武器が揃えば、制圧するのはそれほど難しいことではない。
また、我々の最終的な目的は我々自身でケニア全土を制圧することではなく、ケニア国内に独立運動の気運を高め、動乱を起こし、ビルマにケニア人兵士が送られないようにすることである。
「深澤、そろそろだと思うけど、どう思う?」
「いけそうですか?」
「武器の数も兵力もこちらの方が多い。ただ、俺らは車はない。車の上から機関銃撃たれたのでは、機動力には劣る。日本のような山がたくさんないところでどう戦うかやな。向こうも警備体制はかなり強化してる」
「難しいですね。どうしましょうか」
「まあでも、早く動かんとアジアはアジアで動いてるからな。リスクとしては、村落が特定されてしまうと女子供まで殺戮の対象になりかねないことやな」
「そうなると動きづらいですね」
「動きづらいな。どこの民族か特定されたくないけど、牛を盗むのはカレンジンと相場が決まってるからな。銃を盗むのもカレンジンやろ」
「じゃあ、どっちにしてももうバレてますかね」
「バレてるやろ。けど、今までもイギリス人はここまでは深追いしてない。ただ、今回は銃器を盗んでるから、いつかは制圧に来るんじゃないかな。遅かれ早かれってところではあるやろ。そうすると、女子供も戦火に巻き込まれる」
「それだけは避けたいですね」
「いっそのことそれなら、イギリス軍が攻めてきそうなルートにキャンプを設営しよう。森の中にキャンプを設営して、そこに寝泊まりして、一週間のうち2日だけは交代で家に帰らせよう。それ以外の日は森で遊撃戦の演習をしよう。食料は村から調達しても良いし、集落から買っても良い。トウモロコシの粉をまとめ買いすればいけるやろ」
「あの偽札バレないですね」
「当たり前や。ケニア人がそんなこと気にするはずがない。だいたい、本物ですら、くしゃくしゃになって文字がはげてても使ってるのに」
「あー、本当は自分達もパレンバンの降下作戦みたいな電撃的な作戦がしたかったんですけどねー」
「ブリッツクリークか」
「えっなんですか?」
「ブリッツはドイツ語で雷、クリークは戦いとか戦争。日本語では電撃戦と訳される。機動力に重きを置いた攻撃のことやな。うーん、車はないけど、このでこぼこの不整地であれば、意外と人間が走った方が速かったりして」
「とりあえず、初手で敵の車のタイヤを全部銃弾で打ち抜くとかもありだと思いますけどね」
「そうやな。戦車が出てきたらピアノ線がいるけど、相手もハイラックスみたいな車しか持ってないからな。その荷台から攻撃してくる感じやろ」
ピアノ線はドイツとフランスとの戦いやノモンハン事件で使われた戦法で、予め陣地にピアノ線を張っておき、戦車のキャタピラに絡ませて動けなくする戦法である。
「とりあえず、今の間に機動力を活かして、イギリス人の農園をいくつか奪ってしまうか。そしたら、向こうも放っておけなくなるやろうし、軍隊をこちらに送り込んでくるやろう。そしたら、ビルマに兵力を送る余裕もなくなるんちゃうかな」
その日の夜私はカレンジンの男たちに呼びかけた。
「君たちは今までイギリス人達から牛を盗んでくることを誇りとしていた。そうだろう?
そして、今武器を盗んで来ることを誇りとしている、そうだろう?
しかし、イギリス人達もいつまでも黙って盗まれているほど馬鹿ではない。遅かれ早かれ、この村落に攻め入ってくる。そうなると、君たちの家族も無事ではないだろう。
ここでよく考えてほしい。そもそも君たちは牛をイギリス人から盗む必要があったのかと。元々この地はカレンジンの土地であった。それをある日イギリス人が来て、土地や農作物や牛を不当に占拠した。
どうせなら、ここで立ち上がり、不当に占拠された土地を取り戻し、カレンジンの土地をカレンジンの手に取り戻そうではないか。もう君たちは盗みを生業とする必要は無い。先祖代々受け継いだこの土地で牛を飼い、トウモロコシを育て、チャイを飲み、平和に暮らせばそれで良いのである。
私と一緒にイギリス人の農園をカレンジンの手に取り戻したい者は一歩前に出よ」
そうすると、ほとんどの男が一歩前に出た。私たちは作戦を決行した。森に設営したキャンプから出たり入ったりを繰り返しながら行う遊撃戦を展開した。これも陸軍中野学校で教わった通りである。
そうやって、戦闘を続け、イギリス人達に戦慄を与え続けた。農園を奪取し、その地域の人たちはトウモロコシ畑と牛とヤギと鶏を取り戻し、比較的豊かに暮らすことが出来た。
私と深澤もしばらくは次の作戦を練ることと再び農園を取り返そうとしてくるイギリス軍に備えて、いたるところに落とし穴などの罠をしかけながら、その地で大自然を堪能しながら暮らした。
だが、我々が次の目標に向かう前に日本は米英蘭支蘇の五か国と講和条件を結んだ。時すでに遅かったのである。イギリスのケニア兵たちはビルマに送られ、日本兵と闘った。そして、皮肉なことにビルマの地で実際に日本兵を相手に闘うことで、日本十八番の遊撃戦を学んで帰った。
そして、大英帝国の利益の為に闘うイギリス人、インドの独立の為に闘うインド人、ビルマの独立の為に闘うビルマ人、日本の自存自衛とアジアをアジア人の手に取り戻すというイデオロギーの為に闘う日本人たちを見て、ケニア人としての民族意識が芽生えた。
彼らが大東亜戦争終結から7年後の1952年に独立闘争を起こした。カレンジンとは全く別のキクユ族という民族である。いわゆるマウマウの反乱である。この反乱の鎮圧にイギリスは植民地予算の4年分もの戦費の支出を迫られた。植民地とは武力によって成り立つ合法的なブラック企業である。商売でやっている以上、収入よりも支出が多くなれば撤退する。
1963年、次々とアフリカ諸国が独立し、アフリカの年と呼ばれた1960年の3年後に念願のケニア独立が果たされた。
5年後のメキシコオリンピックではケニア人のキプチョゲケイノ(やっぱりキプがつく)が1500mで金メダルを獲得、1972年のミュンヘンオリンピックでは3000m障害で金メダル、1976年にブラザー・コルムがカレンジンが多くいるイテンの聖パトリックハイスクールに赴任、多くの世界大会入賞者、優勝者を輩出、1991年、ドイツのディーター・ホーゲン、イギリス人のキム・マクドナルド、アメリカ人のトム・ラドクリフらが共同でカレンジンの多く住むイテンにキンビアアスレチックスを設営、同年同マネジメントのサミー・リレイが当時の世界歴代2位である2時間7分2秒をマーク、翌年には当時のハーフマラソンの世界記録である59分台をマーク、その後数々のランナーがメジャーマラソンのトップ6、トップ3、チャンピオンに輝いた。
「昔は日本人は敵だったが、今は友達だ。でも、こうやってお互いの歴史を正しく伝えていくことは、とても大事なことだと思うよ」
そう語るのは当時日本軍相手に闘ったカンバ族の兵士、ムゼーである。
「いやー、当時は地道に乾いた赤土ぼこりが舞うところを歩き回って、工作して、ケニア人の家で飲み食いしてお腹壊したりして大変でしたねー。もっとユーチューブとかブログとかで便利に思想教育が出来ると良いんですけどね」
そう語るのは当時ケニアで工作活動に従事した秘密機関獅子の深澤中佐である。
「やっぱり、ケニア人相手に色々するのは疲れた。あまりにも文化が違い過ぎる。ケニア人もケニアも好きだけれど、やっぱり日本人同士の方がお互い容易に理解しやすいし、日本人は10人いたら9人が誠実で最低限の信頼関係を築いていける、やっぱり色々やるなら日本が良い」
そう語るのは当時ケニアで工作活動に従事した秘密機関獅子の池上大佐である。
終わり。
*本作品はフィクションです。特に、カレンジン相手に工作活動をした二人の工作員及び秘密機関獅子の部分はフィクションです。その他の部分については史実に基づいて執筆しています。
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