1.自律心とは何か。
皆さんはアドルフ・アイヒマンという男をご存知でしょうか?アイヒマンは1906年に生まれ、1939年にゲシュタポ局宗派部ユダヤ人課課長に就任、膨大な数のユダヤ人をガス室に送り込みました。
アイヒマンはイェルサレムの裁判で様々な罪を突き付けられますが「これはあなたがやったことに間違いありませんね?」と確認されるたびに「Jawohl, aber das ist nicht meine Schuld (仰る通りです、しかし私の責任ではありません)」という発言を繰り返しました。またこのようにも述べています。
「連合軍が空爆により罪のない老人、女子供を虐殺したように命令されれば兵士は何でもやる、もちろん自殺する自由はあるが」
この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは「アイヒマンは死刑に値する人間ではあるが、悪人ではない。何故なら、彼は他律的であり理性的存在者のみに存在する悪への自由を持たないからだと語ります。ハンナ・アーレントが「根本悪(das radikale Böse)」という言葉を用いていることからカント倫理学の影響を間接的若しくは直接的に受けていることは明らかでしょう。根本悪というのは名前はものすごく悪そうですが、それが意味するところはもっと単純でそれが悪いと知りながら自己愛を優先して行動してしまうのが根本悪です。そして根本悪を犯すには二つの条件があります。一つ目は、自由であることです。例えば、私が手に持っているナイフを離すとナイフは落下します。この時、ナイフは自由意志に従って落下しているわけではなく自然法則に従って落下しているのであり、従って落下する鉛筆が誰かの足の上に落ちて傷つけたとしてもこのナイフに道徳的 責任を負わせることはできません。ナイフの意志とは関係なく必然的に引き起こされたものだからです。ナイフが自然法則に従って落下するのに対して、自然法則から自由に行為することのできる人間の意志のことをカントは自分自身に対する法則であることという風に表現しています。そして、この自然法則によって強制的に行為を決定されるだけでなく、自分自身の意志によって自らの行為を決定できる状態のことを自律と呼びました。
「自然必然性は、作動する原因の他律であった。というのも、あらゆる結果はなにか他のものが、作動する原因を原因生へと規定する、という法則にしたがってのみ可能であったからである。してみると、意志の自由とは、自律以外の、つまり自分自身に対して法則であるという意志の特性以外のなんであることが出来ようか。」
『人倫の形而上学の基礎づけ』
「意志の自律は、一切の道徳的法則と、これらの法則に相応する義務との唯一の原理である。これに反して意志の一切の他律は、責務にいささかの根拠をも提供しないばかりでなく、むしろ責務の原理と意志の道徳性とに背くものである。」 『実践理性批判』
そして、人間は理性に照らし合わせて善悪を判断する能力があります。カントはこれに関してこう述べています。
「格率の如何なる形式が普遍的立法たるにふさわしく、またいかなる形式がそうでないかということは、はたから教えられるまでもなく、各自の最もふつうの悟性でも容易に区別できる。」 『実践理性批判』
格率とは誰もが持っている生活上の信条です。普遍的立法とは世界中に人間全員が同時にその行動基準に則っても大丈夫なような法則のことです。例えば、「自分にとって都合が良いときには約束を破っても構わない」という格率=生活の信条を世界中の人間全員が持ったとします。そうすると、誰も約束を信じなくなるので約束というものがそもそも存在しなくなり、自己矛盾を起こします。この場合には「自分にとって都合が良いときには約束を破っても構わない」は普遍的立法とはなりえません。
カントは人間は何が普遍的立法になりうるかは悟性に問いかければ自ずとわかるとしています。悟性というのはここでは判断能力と思ってもらってよいかと思います。正しく判断できるにもかかわらず、自己愛を優先して普遍的立法を無視して行為してしまうのが根本悪です。カントの言う普遍的立法になりえるか否かは、善悪の判断だと思ってもらっていいでしょう。
従って、幼児や動物は悪を犯すことが出来ません。何故なら、善悪を判断することが出来ないからです。善悪を判断できない存在は悪を犯すことすらできないのです。
また行動の自由を持たない人間も悪を犯すことはできません。何故なら、行為の責任を帰属させることが出来ないからです。これは落下するナイフに悪を犯すことが出来ないのと同じです。
これを受けてアーレントはアイヒマンは考えることを放棄して上からの指示に従い続けました。つまり、自律的な理性的存在者であることを放棄したのであり、従って、死刑に値する人間ではあるが悪人ではないと述べたのです。
2.自律と自己責任と集中力
ここまで読んでみて、それは戦時中のヒトラー政権の下での話であり、特殊な状況だと思っている方も多いかもしれません。しかし、少し自分の行為を振り返ってみてください。「先生が言うからこうするしかなかった」、「先輩に言われてこうするしかなかった」、「上司に言われてああするしかなかった」、「そんなこと誰もやってないから私もやってはいけない」等々と思うことが多々あると思います。私にもそういった状況は理解できます。特に上下関係の厳しい集団にいると先輩や上司の言われたことに反対するのは勇気のいることです。
しかし、忘れてはならないことはあなたは不利益と引き換えにそうしない自由があるということです。後から先生に怒られて嫌われるかもしれませんが、あなたは先生のいうこととは違う方法で練習したり、勉強したりする自由があります。会社をクビになるかもしれませんが、上司の要求を断る自由があります。レースで結果を出せなくなるかもしれませんが、練習に行かずに家で寝ていても構いません。体調を崩したり、疲れやすくなったり、集中できなくなるかもしれませんが、毎日三食コンビニ弁当で済ませても構いません。
そういった諸々の不利益を自覚しながらあなたはそういった行為を選ぶ自由があるのです。なぜこういう話をわざわざするのか?それは自分の責任の下でその行為を選ぶのと、他人から言われて、若しくはその時の状況で自分はそうするしかなかったんだと思うのではまるで集中力が違うからです。
車を運転している人は道を覚えているけど助手席に乗っている人は同じ景色を見ているにもかかわらず、道を覚えられないというのはよく言われることです。或いは一人暮らしを新しく始めた人はそれまでは意外といろんなことを知らなかったということに気づくでしょう。今まではそうしたことは親や周囲の大人がやってくれていたのです。
逆に大勢の人間で話し合うと少々極端な意見でも通ってしまうものです。或いは誰も本音の意見を言わないということもあるでしょう。これはそれぞれが自分の意見に責任を持たず他人に任せているからです。
こんな話もあります。ルー・タイスというコーチングで有名な人が1500mと3000m障害の名ランナーキプチョゲ・ケイノを指導した時の話です。キプチョゲ・ケイノがある日ルー・タイスに1500mの最後の周は大変な苦痛を伴うのだがそれを何とかする方法はないかとルー・タイスに尋ねました。それに対するルー・タイスの答えは
「解決策はあるよ。でも、君はそれを嫌がるかもしれない」
「教えてください。どんな方法ですか?」
「最終ラップに入って、最後の400メートルを走らなければならないとわかったら、そこで止まるんだ。走るのをやめるんだよ。そこで止まって、トラックの内側に座り込むんだ」
キップは言います。
「そんなの馬鹿げてます。座り込んだら、レースで負けてしまうじゃないですか」
「そうだ。でも、少なくとも君の肺は苦しくなくなる」
「僕が何のために走ってると思っているんですか?」
「まったくわからないな。いいかい?私が走らないことは知っているだろう?私だって、あの痛みは我慢できないさ」
「僕が走るのは。モントリオール・オリンピックで勝てたら、牛がもらえるからです。僕の国ではそれでずいぶんお金持ちになれるんです。家族は、僕をアメリカの大学に送るために自分たちの生活を犠牲にしてきました。だから僕は、家族の為にも国の為にも、金メダルをとりたいんです」
私は言いました。
「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ?君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ。私に何故走りたいかを話した。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要などないんだよ。レースを終える必要なんてないんだ。いつだって止まることが出来るんだ」
「僕は走って勝ちたいんです」
「じゃあ、それに気持ちを集中しろ。『したい』『選ぶ』『好む』を忘れずに練習しなさい」
(ルー・タイス著『アファメーション』田口未和訳)
この例では、ルー・タイスはキプチョゲ・ケイノの肉体的苦痛を取り除くことは全くできませんでしたが、これだけでその苦痛を乗り越える力や勇気が湧いてくるものです。
私は大学2回生の時に陸上競技部をやめ、卒業後は実業団に所属せずに、就職もせずに走る道を選びました。周囲からは「それであかんかったらどうすんの?」とか「そんなに甘くないぞ」とたくさん言われました。そういった言葉のほぼすべては私のことを思って言ってくださったものであることは分かっています。しかし、私は駄目なら駄目でそれで構わないと思っていたので、それで迷うことはありませんでした。実際、大変なことも多々ありますし、周囲の理解を得るのも難しいのですが、自分で決めたことなので特に気にせずに自分のやることに集中することが出来ます。これが他人に言われて決めたことなら全く違ったでしょう。私は言い訳を考え、今では走ることをやめていたでしょう。
しかし、自分で決めたこと、これは自分のやりたいことと思えばより集中することが出来、より創造的になるものです。自律的に自分の行為を決め、自分の行為に責任を持つとはそういうことなのです。
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