前回の記事『マラソントレーニングのアンチノミー』でトレーニングプログラムを言語化したり数量化することは不可能だということを述べました。そして、最終的には指導者と選手との間で言語を媒介せずに、情報そのものが共有されるようになるのではないかと述べました。但し、その情報そのものを言葉で表すことはできません。但し、走り始めた中高生や市民ランナーの方は、例え言語や数字だけを見ていても競技力は伸びると思います。何故なら、それまでは本当に何の情報もなかったところに新しい概念が入ってくるからです。例えば、インターバルトレーニングという概念すら持っていなかった人が、新たな概念を獲得して新しい刺激をトレーニングに加えると体はすぐに適応反応を示すでしょう。
但し、レベルが上がれば上がるほど、もうすでに何年も、繰り返し様々な刺激を体にかけてきているので、言語上での新たな概念を獲得するということはないと思います。トレーニング刺激を言語や数値で表せないということを理解してもらうために、次の例を考えてください。
日本では一応四つの季節に分かれています。夏と秋は違いますし、秋と冬が違うことにも誰も異論はないと思います。ですが、夏から秋に変わる瞬間をとらえることのできる人はいるでしょうか?秋から冬に変わった瞬間を見たことがあるという人はどのくらいいますか?ゼロだと言ってよいでしょう。誰でも秋と冬が違うことは分かります。「秋」や「冬」という言葉で指し示されるものも何となく分かります。しかしながら、誰も秋と冬の間に境界線を引くことはできません。秋と冬の間に誰も境界線を引くことが出来ないにもかかわらず、11月とか12月上旬になると、「もう冬ですね」と言いだす人がちらほら出始め、年末になると誰もが冬だと認識します。
10月の爽やかな天気の日が秋で、年末年始が冬であることくらいは当たり前です。しかし、これが11月下旬から12月上旬くらいになると微妙で、客観的意味を持った秋や冬はどこにも存在せず、強いて言えば、この時期に「紅葉がきれいで秋らしいですね」とか「風に寒さが感じられるようになってもう冬ですね」などと語ることは発話者の意見表明になります。言ってみれば、客観的に季節を述べているわけではなく、私は秋を感じますとか冬を感じてますという意味を持った文章になると考えられます。
トレーニングプログラムも同じことで、「練習しないと速くなれない」とか「練習をやりすぎると速くなれない」とかは誰にでもわかります。中高生や走り始めたばかりの市民ランナーの方たちが言語による指導でメキメキ速くなっていくのも、第一線でやっている人間からすれば、年末年始が冬であるのが当たり前であるのと同じレベルのことでも、始めたばかりの人にはわからないので、言葉でそれを示してあげるだけで著しい上達が見られるからです。
但し、トップランナーになると秋と冬の境目はもはや、数字や言語で表すことが出来ないのと同じくらい微妙な匙加減が必要となります。しかも春夏秋冬は一つの次元で表すことが出来ますが、マラソントレーニングは大雑把に分けても、第一アンチノミー(負荷と休養)、第二アンチノミー(質と量)、第三アンチノミー(一般性と特異性)という三つの異なる次元から構成されるので、春夏秋冬よりももっと言語で表すことは難しくなり、平面図形に表すことも不可能です。つまり、春と夏は同じ次元にあると考えることが出来ますが、春と日本を同じ次元で考えることが出来ないのと同じことです。
我々のやり方=スピード1,2,3
では実際には指導者と選手のトレーニングに関する会話はどうなっているかということですが、具体的に我々のやり方を紹介しましょう。どこまで、書いても良いかがわからないのでここではコーチホーゲン自身がユーチューブ上で語っていることを参考に書き進めていきます。英語がわかる方はご覧になってみてください。
参考:chasingKIMBIA Season Three: Dieter Spricht #2
chasingKIMBIA episode #20 – Dieter
考えてみれば、私のブログ上ではコーチホーゲンの初登場ですね。本題に戻りますが、我々は全ての持久走を距離もしくは時間と、質に関する記号として1,2,3を組み合わせて表します。この質に関する記号は遅い順に1,2,3になります。つまり15k1は15k2よりも遅く、実際には15k1-2や30k2-3のように異なる質を組み合わせることもあります。このやり方は全ての練習をアンダートレーニング(オーバートレーニングの対義語)でやるための手法です。つまりその日の選手の感覚に従って、強度を調整させるということです。そして、距離が自動的に考慮に入れられるべきで、10k3は30k3よりも自動的にレースペースに近くなります。この手法の長所は物理的速度に縛られなくて済むことです。1㎞3分30秒という設定の方が、物理的速度は一定なので正確に感じられるかもしれませんが、ここでは生体に与える影響が無視されています。トレーニングの目的は、負荷→休養→適応というサイクルを繰り返し、レースで最大の競技能力を発揮することです。ですから、物理的速度が1㎞3分30秒という事実よりも、そのトレーニングが生体に与える影響が考慮されるべきです。
但し、その生体に与える影響自体も体の中では様々な異なる現象が生じています。この様々な現象に統一を与えて、疲れたとか脚が軽いとか、今日は気持ちも体もすっきりとか色々な感覚が生じます。こういった感覚を頼りにその日どのくらい速く走るかを決めていくのが、コーチホーゲンのやり方です。
二つ目の動画では例として15k2という練習を挙げて、60分かもしれないし、54分かもしれないし、50分に近くても15k2であり得ると述べています。ここでほとんどの人は「えっ、15キロで60分と54分と50分って全然違うやん!」と思うはずです(語尾にやんがつくかどうかは別にして)。しかし、それが54分であろうと、53分であろうと、数字で記述する以上そこに本質的な違いはありません。確かに、物理的速度という観点から見れば、15キロ53分は53分ですが、生体に与える影響を考慮に入れれば、53分と54分の間に線を引くことはできません。その日の体の状態、起伏、標高、風、路面といったものでいくらでも変わるからです。ましてそれを走る前に的確に指示することは不可能です。そうすると、物理的速度以外の概念を持ってくる必要があります。我々はたまたまスピード1,2,3という言葉を使っているわけです。
但し、スピード1,2,3という言葉を使っていたとしても、私は言語で会話が成立しているとは思いません。明らかに我々は言語では伝えられないから仕方なくスピード1,2,3という言葉を便宜上使っています。しかもマラソントレーニングはその日一日の話ではなく、数か月間にわたって、スピード1,2,3という大雑把な指標を頼りに適切にペース配分していくわけです。ですから、同じ15k2というプログラムでも物理的速度が異なるのは当然です。それがどのように異なるのかということに関しては、コーチが想定している情報と選手が持っている非言語的な情報(体の感覚など)を言語によってすり合わせて、なんとなく間違った方向に進んでいるのか、正しい方向に進んでいるのか見当をつけながら、最終的に両者の間でほぼ非言語的にコミュニケーションが成立するレベルを目指すべきではないかと思います。非言語的コミュニケーションがどのように成立するのかということについて説明しだすと、マラソントレーニングから大きく逸脱しますので、ここではレストランがレストランであるとわかるように(前回記事を参照してください)、もしくは冬が冬であるとわかるように、或いは一日の中で暖かった日中から寒い夜に変わる瞬間がわからないにもかかわらず、夜は寒いということが言えるようにとだけ述べておきます。
もう一つ述べておくと、ジャック・ダニエルズ博士のように全ての練習を同じ次元に落とし込んで数値化するという手法では、マラソントレーニングは部分の集合体ということになってしまいます。しかし、私はマラソントレーニングは部分の総和ではないと考えます。これに関しては、ジャック・ダニエルズ博士もそのように考えていたとは思いますが、最後の2週間でハードに練習をやりすぎると全てがダメになってしまうマラソントレーニングにおいて、部分を足していって、80点の練習と90点の練習などと評価することは無意味だと思います。部分を足していって同じ点数になったとしても、レース2週間前に過ちを犯すのと、8週間前に過ちを犯すのとでは明らかに異なります。部分の総和としてのマラソントレーニングではなく、全体で一つのものとして捉えるべきです。この時、あえて数値化するなら、試合の結果を見て2時間10分の練習とか2時間5分の練習という言い方しかできなくなりますが、このようなやり方で練習を評価することが無意味であることは言うまでもないでしょう。
マラソントレーニングは部分の総和ではなく、全体を一つのまとまりとして捉えるべきというのも私がマラソントレーニングは言語でも数値でも表せないと考える理由です。
私自身は立体図形でモデルを示すことも可能だと考えていますが、やはりその場合でも単なるモデルであり、(x,y,z)=(2,4,5)の時のマラソントレーニングみたいに具体的に数字を代入することはナンセンスだと思っています。あくまでも、モデルとして、全てのマラソントレーニングはこの立体図形のどこかに位置付けることが出来ると言えるような立体図形は私の頭の中にあるというだけの話です。
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