スポーツでもビジネスでも勉強でも何かを学びたいと思ったら主に以下の3つの選択肢があります。
1. 実績を残した人
2. 指導実績のある人
3. 原理原則を教えてくれる人
一番目は瀬古利彦さんや中山竹通さん、高岡寿成さんに直接マラソンを教えてもらうというのがそうです。現役選手でも良いのであれば大迫さんや設楽さんに聞けば良いと思います。これは多くの人が問題点を指摘していますが、再現性の高さが圧倒的にネックになります。いくら瀬古さんや中山さんに現役時代俺はこうだったと言われてもそれは瀬古さん、中山さんだからできただけの可能性もあるということです。
二番目の指導実績のある人に教わるのが良さそうですが、これも少し曖昧な部分があります。例えば、旭化成、日清食品、コニカミノルタのようなチームの指導者であれば毎年良い選手が入ってくるので特に指導者は何もしなくてもそこそこ指導実績は上がります。特に男子の実業団は指導者も選手に任せる部分が多く、また選手の方も指導者には出来るだけ放っておいてほしいと思っている選手も少なくありません。実際、私はある強豪チームの監督さんから「才能のある選手だけではなくて、お前みたいに泥臭い奴を一から育ててみたい」と勧誘していただいたこともあります。有力選手を欲しがるのはどのチームも同じですが、反面それだけでは自分の指導能力が評価されないことを指導者自身感じているわけです。指導能力がなくても強いチームを作ることは可能で極端な話、読売が実業団やマラソンに参入すれば、簡単に強い選手を集めて強くできるでしょう。それでもかかる費用は巨人軍と比べれば雀の涙みたいなものです。
3番目は原理原則を教えてくれる人です。原理原則は万人に当てはまります。ですから、外れはあり得ません。逆に万人に当てはまらないのであればそれは原理原則とは言えません。私達が学ぶべきは原理原則を教えてくれる人です。私達はその指導者の指導実績を問うべきではありません。問うべきはその指導者が原理原則を如何に深く多段階の抽象度において理解し、応用できる能力があるかです。
アメリカのコーチブラッド・ハドソンは体系的にトレーニングの原理原則を教えてくれる名指導者でDathan Ritzenhein、Shane Culpepper、Alan Culpepper、Tera Moodyなどを育て上げました。私の知り合いではベネズエラのルイス選手(5000m13:42 10000m28:32)がコーチハドソンの下でトレーニングしています。
ブラッド・ハドソンは大学時代既にアメリカのトップ選手で将来を約束された選手でした。ところが、大学卒業後マラソンに転身した彼の成績は思わしくなく現役時代は2時間13分を二回走っただけの平凡な記録しか出せませんでした。彼は次のように述懐しています。
「私は常に同じ過ちを繰り返していた。故障とオーバートレーニングだ」
その彼が後にコーチになって生み出したトレーニングの原則は「アダプティブランニング」と名付けられました。アダプティブ(adaptive)とはアダプト(adapt)という適応するという意味の動詞の形容詞形です。適応するとは何に適応するかというとトレーニング刺激に体が適応するということです。プロ転身後の彼はトレーニングをやらなくなったわけでも節制しなくなったわけでもありません。寧ろフルタイムで取り組めるようになり以前よりもハードに練習するようになりました。しかしパフォーマンスはトレーニングによって決まるわけではありません。パフォーマンスはトレーニング刺激への適応によって決まります。
「トレーニングへの体の反応に十分に気を配ってトレーニングを修正してこなかった。これが私が犯した過ちだ」
と彼は振り返っています。そこから生まれたルールはスケジュールは鉛筆(ボールペンではなく)で書くというものです。これは例え話ではなく、本当に鉛筆で書きます。「スケジュールは絶えず修正を図らなければいけない。最終的にその日の練習を決めるのはその前の練習が終わった後だ」と彼は言います。火曜日の朝にインターバルを予定しているのであれば、月曜日の午後練習が終わった後にインターバルを予定通りするのかどうか決めます。時にはインターバルの前のアップが終わった後に疲れているように感じているのであれば、プログラムを変更することもあるといいます。
プログラムの変更の仕方
予定していたスケジュールを変更する際の彼の一番のお勧めは、予定していたプログラムを若干減らすというやり方です。10x1000mを予定していたのであれば6-8x1000mに減らすというやり方です。もう一日楽な練習を挟んで遅らせてやるという方法もありますが、これではその後のプログラムを全て変更する必要に迫られます。それよりは一日だけプログラムを変更してスケジュールに戻る方が望ましいと彼は言います。
もし6x1000mすら出来ないほど疲れを感じたらどうするか?この場合はハードな練習をまるまる削ります。そうすれば、同様に一日スケジュールを変更するだけで元通りのスケジュールに戻れます。
「これは皆さんが考えているほど簡単なことではない」と彼は言います。
「選手は常に予定通りの練習をこなしたいという意欲に駆られており、練習を削らせることは、例えそれが有益なことだと頭で思っていたとしても、予定通りの練習をこなすことよりも難しい。これをやめさせて選手を正しい方向に導くのが指導者の役割である」
選手個々に合わせたスケジュールの作成
彼が現役時代に犯したもう一つの過ちは他人のスケジュールをコピーし過ぎたということです。彼は学生時代からあらゆるトレーニングに関する本を読みこみトレーニングを学び自分のトレーニングに落とし込んだといいます。多くの長距離ランナーがそうであったようにニュージーランドの名コーチアーサー・リディアードの影響を大きく受け、ハイマイレージのトレーニングに慣れ親しんでいたといいます。
ただ体というのは同じトレーニングプログラムに対して異なる反応を示します。ですので、その体の反応に従って少しずつトレーニングプログラムは修正していく必要があるのですが、彼はトレーニングプログラムに執着し過ぎたと語っています。コーチになった後は同じ距離のレース、同じ目標タイムでもトレーニングプログラムの細部は修正を加えるべきだと考え実際ここに応じたプログラムを作成しています。
要するに、一つの種目の原理原則があるだけで一つの種目の為の一つのトレーニングプログラムがあるだけだということです。あなたの体は世界で他に二つとないもので過去にも先にもあなたは唯一の存在です。ですから、どの本を読んでもどんな名コーチに尋ねてもあなたの為のトレーニングプログラムは分かりません。唯一の方法は原理原則に沿って実際にやってみてあなたの体の反応を見ながら、推論を働かせてスケジュールに修正を加えていく。これがアダプティブランニングという言葉の意味であり、スケジュールは鉛筆で書くべきだという彼の主張になる訳です。
トレーニングの大枠
スケジュールは鉛筆で書くべきで、ここの体の反応に従って修正を加えていくべきだというのが彼の考え方ですが、勿論これはノープランとは違います。彼のトレーニングにはいくつかの原理原則があります。如何に私が重要だと思うものを簡単に抜き出したいと思います。
1. トレーニングの期分けはない
2. 一般性から特異性へ 神経筋と有酸素能力から特異性へ
3. ランニングフィットネスの第一決定因子は練習量
4. ハードな練習は週に二回
一番目から順番に解説していきたいと思います。
1.トレーニングに期分けはない
トレーニングの期分けという言葉はPeriodizationの訳語で時期の応じてトレーニングのシステムを変えることを意味します。先述のアーサー・リディアードのトレーニングシステムではマラソンコンディショニングと呼ぶ中強度の持久走を中心とする時期、ヒルトレーニングと呼ぶ上り坂を用いたトレーニングで脚筋を養う時期、インターバルに主眼を置く時期、そしてレースに向けてマラソンコンディショニングで養った有酸素能力とインターバルで養った無酸素パワーを強調させていく時期というように明確に期分けをします。
一方でブラッド・ハドソンは明確な期分けをせずに連続的に一般性から特異性へと少しずつ移行させていきます。ですので、何か一つの種類のワークアウトに主眼を置く時期というのはありません。全てを組み合わせながら少しずつ連続的に発展させていくのが彼のやり方です。
2.一般性から特異性へ 神経筋と有酸素能力から特異性へ
一般性から特異性へ移行させるということに関しては前回の記事『レナト・カノーヴァから学ぶマラソントレーニング』で詳しく解説しました。なんでもコーチカノーヴァはコーチハドソンが大きく影響を受けた指導者の一人だそうです。
コーチハドソンにとって一般性とは何かというと神経筋システムと有酸素能力によって決定されます。有酸素能力とはどれだけ効率よく酸素を用いてエネルギーを生み出せるかということであり、もう少し掘り下げてみると毛細血管密度、ミトコンドリアのサイズ、数、ミオグロビンの数の増大、血漿の増大などです。
神経筋システムとは筋力のことです。何故筋力が神経筋なのかというと筋肉と脳は常に神経を介してコミュニケーションをとっているからです。筋力を向上させるにはウェイトトレーニングで筋肥大を起こさせるというイメージが強いかもしれませんが、実際には筋力の向上にウェイトトレーニングはそこまで大きな割合を占めません。持久系競技者においてはほとんどゼロだと言ってもいいくらいです。
スプリンターが全力で走っているときのふくらはぎの筋肉を観察するととても引き締まっていてまるで全ての筋肉が使われているように思われます。しかし、実際に収縮している筋繊維の数はトップスプリンターで3分の2程度です。仮に私が全力で走った時の筋繊維の収縮率が50%だとすると筋肥大無しで10%程度今より多くの筋繊維を収縮させることがトレーニングによって可能になります。これが筋力の向上です。
この時には一本の運動神経につながる筋繊維が同時に収縮します。そして一本の運動神経につながる筋繊維の束のことを運動単位と呼びます。どれだけ多くの運動単位を動員できるかということが神経筋の向上です。イチロー選手のように一見華奢に見える選手の打球が速く、肩が強いのも神経筋が野球に特化して優れているからです。
逆にある特定のペース(例えば1㎞3分ペース)で走った時にどれだけ少ない運動単位でそのペースを維持できるのかということも神経筋の向上です。これがランニングエコノミーの改善と呼ばれる現状です。神経筋に関しては『GMO地帯にすむゴッドハンド』の中で詳細述べていますので、そちらを参考にして下さい。
理論的な部分を除けば、神経筋のトレーニングとはショートインターバルと短い距離の登板走(スプリント含む)、有酸素能力の向上とは持久走のことだと思ってください。
そして、これら持久走とショートインターバルからより実戦的なトレーニングへと発展させていきます。そして基本的にはどれだけ高いレベルの特異性が発揮できるかはどれだけ高いレベルの有酸素能力と神経筋システムを有しているかで決まります。但し、ショートインターバルも速く走れる、有酸素的土台も充分に高いレベルにある、それでも試合では良い走りが出来ない選手はいます。これは神経筋システムと有酸素能力を組み合わせて発揮するための実戦的トレーニングが不十分だからです。神経筋システムと有酸素能力と特異性、これら3つをバランスよく組み合わせていくのが彼のトレーニングシステムです。
簡単なチェックの仕方としては目標とするレースにおいて
1. 呼吸にはまだ余裕があるが速く走るのがきついと感じたら神経筋の改善が来シーズンの課題
2.速く走るのは簡単だが呼吸がきつくてペースを維持できないと感じるのであれば有酸素能力の改善が来シーズンの課題
3.どちらがどうということはないが単純に練習に見合った結果がレースで出せなかったと感じた場合はオーバートレーニング、若しくは特異的な練習が不足している
4.全て順調であったなら、今シーズンの練習は正しい。来シーズンは何か新しい試みを取り入れるべきということになります。
また彼は多くの指導者や選手が特異性の重要性を理解していないといいます。何度も言いますが一般性から特異性へと移行させていくのがトレーニングの原理原則です。ですから、マラソン一か月前に最も大切なのは(彼のトレーニングシステムにおいては)20マイルのテンポ走です。
ところが「多くの選手や指導者がシャープニング(英語で研ぎ澄ますという意味)の為に、マラソンの一か月前になってもショートインターバルを重視することがあるがこれは間違いだ。400mのレースの一か月前に20マイルのテンポランを重視することが馬鹿げているということは簡単に理解してもらえるがその逆はなぜかなかなか理解してもらえない」と彼は言います。
その為彼は「私はシャープニングはしない」と敢えて冗談交じりに話すこともあります。試合に向けて最高の状態を持っていくという意味で言えば、彼もシャープニングはするのですが、レース直前になってスピードに重点を置いたショートインターバルはやらないというのが彼の言いたいことです。
これは1500mのように距離が短くても同じです。800m+400m+400mを1分間の休息で1500mのレースペースで走るような練習がレース直前にやるべき特異的な練習であり、2分間の休息で200mをスプリントするような練習はレースから遠い時期にやるべき練習です。
3.ランニングフィットネスの第一決定因子は練習量
ランニングフィットネスの第一決定因子は練習量というのは、誤解のないように述べておくと、多く走れば走るほど良いという意味ではありません。あくまでも、第一決定因子が練習量です。彼は「週間走行距離が100㎞以下でトップランナーになることも、週に6回以下の練習頻度でトップランナーになることも難しい」といいます。逆に言えば、あなたがランニング初心者であれば走る量を増やすだけである程度のレベルに到達することが出来るということです。
また彼自身の現役時代の経験、他の選手から聞いた話、自分で選手を指導し始めて選手を観察してきた経験から言うと、高い総走行距離が故障の予防になると結論付けています。実は最も故障しやすいのはたくさん練習をしているときではなく、練習量を増やしているときなのです。ですので、最も慎重にならない時は練習量を増やす時であってたくさん走っているときではありません。練習量を増やす時には慎重に慎重に少しずつ増やす必要がありますが、一旦目標とする総走行距離まで増やしたならばその練習量を維持したほうが故障しにくいことを発見しました。これは結構な割合で他の選手や指導者も経験から述べていることで練習量に対して過剰に質の高い練習をすると故障しやすくなるという選手・コーチは多いです。逆に言えば、質の高い練習をしたければ慎重に総走行距離を増やす必要があるということです。ちなみに私の経験と照らし合わせてもそうだと思います。
4.ハードな練習は週に二回
彼の週間プログラムは基本的にはハードな練習が週に二回、ロングランが週に一回、中強度の持久走が週に一回、回復日が週に一回です。イージーランニングが週に二回です。ハードな練習とはインターバルとテンポランのことでロングランはハードな練習にはカウントされません(マラソンの為の長い距離のテンポランは別)。
ロングランをハードな練習にカウントする指導者もいますが彼は次の2つの理由からロングランはハードな練習にカウントしません。
1.強度が高くないこと
2.今更他の指導者に倣って用語を変更するには少し年を取り過ぎたということ
週に三回ハードな練習を組み入れる指導者もいますが、彼は週に二回のハードな練習に留めておくメリットとして、トレーニング刺激に適応するチャンスが増えるということを強調しています。トレーニングによって強くなるのではなく、トレーニング刺激への適応によって強くなるので週に二回のハードなトレーニングは週に三回のハードなトレーニングよりも良いというのが彼の考え方です。
また実は週に二回のハードなトレーニングの方が週に三回のハードなトレーニングよりもハードなのではないかといいます。何故なら、それぞれのハードな練習によりよい準備が出来るからです。これは単純な話で週に三回よりも二回の方がよりハードに走ることが出来ます。「ハードな練習は質が大切なのであり、量ではない、だからこそ週に二回よりフレッシュな体でハードに走ることが、結果的によりハードな練習を作ることになる」と彼は言います。
週に二回のハードな練習とロングラン以外は楽に走って体にハードなトレーニング刺激を吸収させるチャンスを与えます。その代わりここで少し長めに走ります。何故なら、ランニングフィットネスの第一決定因子は練習量だからです。また先述したようにある程度の総走行距離を維持することが故障の予防にもなります。
但し、週に一日は回復日です。この回復日は必ずしも練習しないとは限りませんが、エリートランナー以外には完全休養やクロストレーニングを薦めています。彼の指導している選手は何をするかというと45分の楽なランニングと80m程度のヒルスプリントを8本程度です。通常この次の日がインターバルです。そしてインターバルで良い走りが出来るかどうかとこのヒルスプリントでどう感じるかの間には高い相関関係があります。従って、ここであまりよく感じない場合には次の日のインターバルを修正します。
それに加えてもう一日は中強度のランニングを加えます。火曜日と金曜日にハードな練習、日曜日にロングランを入れると水曜日と土曜日は楽なランニング、月曜日は回復日です。そうすると木曜日が一日空きます。ここにハードな練習からの回復を図りつつ有酸素刺激を少し余分に加えるチャンスが出来ます。ここが彼のプログラムでは中強度の持久走となります。
ここまで読んでみていかがでしたでしょうか?簡潔に原理原則が述べられていて、週間プログラムも決まっているので応用もしやすいと思います。最後に彼のトレーニングに対する飽くなき探求心を表す言葉を紹介して終わりにしたいと思います。
「トレーニングとは数学における漸近線に似ている。漸近線とは互いに近づいていくが決して交わらない二本の線のことである。トレーニングも同じで限りなく完璧に近づくことは出来るが決して完璧になることはない。後から振り返ってみれば必ずどこかに改善点があるものだ」
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