こんにちは、本日は謹んでご報告させて頂きたいのですが、もう一度プロ復帰を目指してトレーニングを再開いたしました。
そもそも、今更プロ復帰と言っても、私が元々プロランナーであったことを知っている方も少ないですし、有難いことに今はランニングコーチとしての方がはるかに評価を頂いています。
そんな訳で、今回は長距離走、マラソンが速くなるために役立つ内容は一ミリもないのですが、応援して下さる方もいらっしゃるので改めて報告させて頂きたいと思います。
私は亀岡中学校を卒業した後、洛南高校に入学し、数々の日本一の選手や日本記録、日本ジュニア記録、日本高校記録を出した先輩、同輩、後輩の末席を汚しながら卒業させて頂きました。
本当は高卒で実業団に入りたかったのですが、取ってくれるところもなく、陸上で取ってくれる大学もなく、一般入試で京都教育大学に入学しました。
京都教育大学には一応陸上競技部はありましたし、立派な指導者の方もいらっしゃったのですが、特に教えてもらえることもなく、練習相手もおらず、陸上競技部に入部した時から、自分で練習を考えて、一人で練習をするセルフコーチングのスタイルを取ることになりました。
そんな訳で、陸上競技部にいるメリットは特に私にはなかったのですが、周りからああだこうだと介入されることも多く、それが煩わしく、早々と退部したいとは思っていました。ただ、お世話になっていた長距離の二つ上の先輩がいらっしゃって、なんとかその先輩は関西学生駅伝に連れていきたかったので、そこまでは陸上競技部でやりました。
残念ながら、関西学生駅伝の予選で敗れ、個人としても現在住友電工で活躍している村本君にラストスパートで秒差で敗れ、良いことは何もなく最後は寂しく退部することになりました。その後は帰宅部として陸上競技を続けていました。
一人で走っていても将来はマラソンで飯を食うというのは決めていたので、そこから逆算して粛々と走っていました。そんな中で、大学二回生の終わりにハーフマラソンで63分09秒という記録をマークしました。
今はレベルがはるかにあがっていますが、当時は大学生の中では30番くらいで、日本ランキングもその年の69位に該当する記録でした。関西学生歴代4位です。そのあたりから、ちょっと将来の自分に対する気持ちが少し変わってきました。
自分自身を客観的に見つめた時に、選手としては将来楽しみではある者のその他大勢の域は出ていません。ただ、指導者としてみたらどうか?
当時の私と同じ環境で、高校の100傑にすら入れなかった選手を2年経たずに日本の100傑に入らせて、ハーフマラソンにも順応させられる指導者が一体何人いるだろうか?
指導者としてはそこそこ評価しても良いのではないかと思いました。
また、私自身は大学4年間の練習内容を正確に知っており、その中で何を考えて何をやってきたのかということも全て知っている訳です。自分の強みと弱みも分かっています。そうなると、データの蓄積はある訳です。
また、なんとなく皆様お気づきだと思うのですが、私は理論から入っていくタイプです。理論から入っていくけれど、100%その理論に当てはめていく訳ではなく、経験をもとに微調整していきます。また、理論は私なりの理論であり、誰か特定の指導者が書いた本をそのまま踏襲している訳ではありません。
今ほどではありませんが、大学生の時すでにほとんどの指導者よりもトレーニングについては語れるという自負もあったので、それまでは実業団に行きたかったのですが、その気持ちに少しずつ変化が出てきました。
そんな折に、更に勉強したいということもあり、ケニアに単身合宿に行きました。そこで現在のコーチのディーター・ホーゲン氏に出会いました。
コーチホーゲンはそれまでボストン、ロンドン、ベルリン、ニューヨーク、シカゴなどのメジャーマラソンのチャンピオンやトップ3、トップ6を述べ200人以上も育てており、指導実績も傑出していましたが、それよりも単純に私が知らなかったことをたくさん教えて下さったこと、あとは考え方が非常に単純であったことに惹かれ、コーチホーゲンの下でプロとして競技を続けることに決めました。
おそらく、一番の違いは日本の体育会系では、「みんなと一緒にやることが大切」と言われたり、質問をしただけで「こざかしいことばかり考えずにやってみろ」とか言われることが多かったのですが、そういうのが嫌だったのだと思います。皆と一緒にやって、皆間違っていたらどうするのか?
とりあえずやってみてそれが間違っていたら、どう責任を取ってくれるのか?
誰も責任を取ってくれないのに、とにかく言われたことをやらないと怒られる、そんな環境に嫌気がさしていたのですが、コーチホーゲンにはそういった部分がありませんでした。
プロになってからは金銭面を中心に色々と大変でしたが、1年目に単独で走った30キロで1時間31分53秒、2年目に大阪マラソン2時間13分41秒(その年の日本ランキング42位)と満足はしていませんでしたが、それなりに階段は一段ずつ登っていっていたと思います。
2018年の大阪マラソン(途中棄権)、2019年のヴィーンマラソン(2時間15分23秒)は結果こそ残せませんでしたが、練習を見ている限り、確実に2時間10分切りに近づいていました。この点に関しては、私もコーチも意見が一致していました。そろそろ2時間10分が切れるだろうというのが我々の見方でした。
ただ、この辺りから色々とおかしくなってきていました。一つはスポンサーとコーチも含めた三者の関係性です。この時のスポンサーはアミノサウルスさんです。一番の問題点はコーチが日本語が話せず、アミノサウルス側は英語もドイツ語も話せないことです。
本来ならば、選手とスポンサーの間にマネージャーが入って交渉を進めるものなのですが、コーチが日本語が話せないので、私が間に入っていちいちコーチにお伺いを立てて話を進めなければいけませんでした。
そんな中でアミノサウルスの方からあのレースに出て欲しい、このレースに出て欲しいとの依頼がちょくちょくありました。ケアンズマラソンで優勝したのも、その依頼の一つです。ただ、結果をちゃんと出したいのであれば、そういった行き当たりばったりのスケジュールを組むのは良くないんですね。
結局、きちんと結果を出すことがスポンサー側にとってもメリットのあることなので、本来ならばきちんと半年から3カ月かけて一つのレースに向けて準備をするべきです。ただ、スポンサー側の気持ちも多少は分かります。
大きな結果を狙えば狙うほど、上手くいくかどうかは分からないので、それならば確実に優勝できる大会に出て欲しいという気持ちも分かります。それが分かっているので私も出場しました。
ところが、コーチにはこれが面白くありません。コーチ曰はく「今までアディダスやアシックス、ニューバランス、ナイキのような大きなスポンサーにもお世話になってきたが、一度たりともレースや練習のことで口出しされたことはない」と。
更に、その後ゴールドコーストマラソンのハーフマラソンに出て欲しいとの依頼がありました。このゴールドコーストマラソンではアミノサウルスとJTBが共同で旅行プランを作っており、JTBから招待の依頼がありました。
ところが、招待とは名ばかりで実際にはこちらへの仕事の義務だけが課せられており、こちらにとっては何のメリットもない内容でした。コーチはこれを「あまりにもアマチュアだ」と一蹴しました。つまり、無視しました。
私は一応お世話になっているんだから、ある程度の歩み寄りは必要だとは言ってみましたが、招待とは名ばかりでこちらにはなんのメリットもない内容であったのも事実でしたし、だから、コーチの気持ちも分からなくはないです。要するに、「馬鹿にするなよ」ということだったんでしょう。
何しろ、東ドイツ政府を相手に自分の要求を通そうとしてきた男ですから、一蹴にするのも無理はないでしょう。東ドイツと西ドイツが統一したのはコーチ36歳の時、皆さまご存知の通り東側の経済はひっ迫しており、国民の生活は汲々としていました。
教え子のウタ・ピッピヒさんと500ドルだけもって西側に亡命してマラソンにかけた男の考え方を変えるのは非常に難しいです。
ただ、そんなやり取りがあって以降のベルリン合宿でも色々と問題が生じていました。ヴィーンマラソンに向けての練習では常に限界までやっていたから、ベルリンマラソンに向けての練習ではもう少し前半おさえて後半上げていくやり方を強調しようということだったのに(それまでもネガティブスプリットを作るやり方であったが、更にそれを強調しようということ)、実際にその通りやってみると、トレーニングパートナーのフィリップとヴァレンティンの後ろばかり走っていることを問題視されました。
その後、フィリップは如実にオーバートレーニングで結果を出せなくなっていきましたし、ヴァレンティンも練習が良かった割にはレースでは結果を残せませんでした。私からすれば、私が遅かったのではなく、二人とも速すぎたのです。
もっとコミュニケーション取れよと思われる方もいらっしゃると思いますが、はっきりとコミュニケーションを取った上での話です。要は言っていることと言っていることの間にずれが出てきたわけです。
まあ、この辺りはコーチも全体の手前なかなかペースが遅くても良いとはいけなかったのかもしれませんし、またトレーニングパートナーといえども、お互い個人事業主なので具体的にどのくらいのペースで走るかは意見交換はしますが、最終的には互いに干渉しあうべきことではありません。
その後私は足の状態が良くなく、不整地の練習は足が強く痛むから下が平坦なところで走らせて欲しい(アップダウンの話ではなく、でこぼこや傾きがないところ)と言ったのですが、「気にし過ぎ」と言われてしまいました。
そう言われたら、こちらも走りますが、私の予想通りに故障して走れなくなりました。故障してからの練習に関しても意見は食い違い、最終的にコーチのいうことを当然聴く訳ですが、結果はどんどん裏目に出てしまい、かなりの練習の負荷を課された私はベルリンから帰ってくる頃には体がボロボロになってしまいました。
本当に体がフラフラして、調子が悪い日は1キロ5分ペースですら走れないのです。マラソンを2時間15分前後で走るような選手が1キロ5分ペースで走れないという状態は理解してもらえないと思います。これは経験した人にしか分からないと思います。
逆に、同じような状態になった人が私に相談のメールをして下さり、私の経験をお話しさせて頂くと「この苦しさを分かってもらえただけでも救われた。周りからは気にし過ぎと言われ続けて真剣に受け取ってもらえなかった」と言っておられた方が何名かいらっしゃいます。
大阪マラソンに招待選手として呼んで頂いていましたが、コーチは棄権するようにとおっしゃいました。大阪マラソンは棄権して、エチオピアでヴァレンティンらと合宿して、もう一度ハノーファーかヴィーンで2時間10分切りを目指そうと言って下さいました。
この点に関して、コーチはずっと私のことを評価し、信じて下さっていたことに変わりはありません。
ですが、この時すでにアミノサウルスとのスポンサー契約が切れることは決まっていました。厳密に言えば、減額なのですが、その提示額が「文化的で最低限度の社会的な生活を送れる」金額ではなかったのです。
そもそも、他の大手企業から二倍以上の金額を提示して頂いていましたが、アミノサウルスの将来性や社長の嵜本さんの人間性に惹かれてアミノサウルスと契約して頂いたのですが、この時点で私に対する評価ははっきりしました。
当時アミノサウルスがサウルスガールなどの色々なインフルエンサーを使い始めた時期でもありました。確かに知名度や華やかさは私よりは上でしょう。ただ、マラソンのマの字も分からないやつに一体何が出来るかというのが私の率直な気持ちでした。
しかし、どちらを重視するかは経営者が決めるべきことです。評価されていないならば身を引くしかありません。体もボロボロでしたし、色々なことが間違った方向に進んでいることは明らかでした。
とは言え、契約が続いている限りは自分のベストを尽くすべきだと考えていましたし、何とか恩義を少しでも返そうと努力しました。6日前は1キロ4分ペースで12キロ走ることすらできなかったのに、不思議とレース当日は体が動いて27キロまでは自己ベストペースを刻むことが出来ました。
さすがに、そこからは練習不足が露呈して、大幅に失速しましたが、その日はふらふらになることもなく、なんとか2時間19分でゴールしました。とりあえず、その時点での自分に出来ることは精一杯やりました。
もちろん、一生懸命やったから許される世界じゃないのも分かっていますし、弁解する気持ちも一ミリもないですが、少なくともその場で射殺されても悔いも恥もないだけのことはやり切りました。
その後、私はいったん競技から離れて、別の職に就くことにしました。ただ、これはあくまでももう一度プロとして2時間10分切りをするための決断であって、やめた訳ではなかったのです。
この時はまだどの仕事につくかも決めていませんでした。自由な環境は必須なので、とりあえずアルバイトをしていたのですが、当時もう26歳だったので、アルバイトも先細りだなと思い、起業することにした訳です。
起業の難しいところは、何時間働いたからいくらもらえると保障されないことであり、起業の魅力は何時間働いたらいくらお金がもらえると決まっていないことです。つまり、100時間仕事をしても収入が0のこともあるし、1日3時間しか仕事をしていないのに100万円稼ぐこともあります。
これが魅力であり、そのままデメリットになります。
ただ、何も考えずに漠然とやったところで、結果になる訳ではないのはマラソンも同じですし、それまで2時間10分切りを目指してやっていた訳ですからそれよりははるかに簡単だろうと思っていました。
その当時は、まだ日本人で2時間10分を切ったのは歴史上100人程度しかいませんでしたが、起業家さんはもっとたくさんいます。マラソンの世界で少しはやれた俺なら、起業くらいは訳ないだろうと根拠のない自信がありました。
そうは言っても、初めは大変だというのは予想通りです。何度も言いますが、マラソンと同じです。今日から努力し始めたからと言って、1か月後に結果が出るようなものではありません。それでも、起業の方がマラソンよりは結果が出るのが速いです。
とりあえず、コーチからは「多くのストレスを抱えながら、スポーツを出来るものではないから先ずは事業の方に集中しなさい」と言われました。そう言われてから、三年が経ちました。
皆様のおかげで事業も安定し、もう一度競技復帰するなら今しかないと思いました。コーチにはもう一度真剣にやるからある程度走力が戻ったら、もう一度コーチとマネージャーをしてもらえるかとメッセージを送りました。
返信はありませんでしたが、答えは聞かなくても分かっています。私はプロ時代にそうしていたように、週末にその週のトレーニングを表にまとめて所感とともにコーチに送りました。返信は「我らは常に一つのチームにあり。練習状況を常に報告されたし」とだけありました。
市民ランナーの方にいつもお伝えさせて頂いているように、先ずは総走行距離と走る頻度を増やし、この三週間で193キロ、216キロ、229キロと徐々に増やしてきました。総走行距離はこれ以上は必要ないでしょう。ここまで練習量を少しずつ増やしながら、徐々に基礎体力が戻るのを待ち、同時にマラソンレースペースの90%の20-35キロ走、ファルトレク、坂ダッシュを交えて故障しにくく、疲れにくい体を作りました。
来週から少しずつマラソンレースペースの110%のトレーニングも入れていけば、3週間後くらいにはレースに出てもそこそこ走れる状態になるはずです。とりあえず昨日移行の練習として600m10本を1分42秒でやりましたが、ダメージもなく感触は上々です。
来週から三週間もう少し本格的にスピード練習を入れていけば、その時点で大阪マラソンの4週間前です。
最後の4週間で練習の負荷を落としながら(密度を落としながら)、マラソンレースペースの95-105%の練習へと移行して大阪マラソンでその時点での走力を確認するというのが現在のプランです。とりあえず、そこでは2時間10分切りは目指さずに自己ベスト(2時間13分41秒)の更新に重点を置きます。
もう一度、プロ復帰を目指すと言っても経済的には自分が自分のスポンサーなのでいきなり目立った結果を残す必要はなく、一段一段階段を登っていけば良いので、そのあたりは余裕をもって出来ると思います。
コンスタントに週200キロ前後のトレーニングが出来る体を作って、トラックシーズンに5000mや3000mの記録も狙っていき、本当に結果が狙えるのは来年の秋か冬くらいかなとは思っていますが、次の大阪マラソンで結果が良すぎて困ることはないので、そこは貪欲に狙っていきたいと考えています。
また、今後の業務や無料メールサポート、ズームコンサルなどはどうなるのかということですが、今後もこれまで通り仕事は続けさせて頂きますので、ご安心ください。自分自身の目標達成と同じように、皆様の目標達成、お悩み解決をサポートさせて頂くことが私の生きがいです。
これからも一人でも多くの方の喜びのお声を聴かせて頂けるように精一杯サポートさせて頂きますので、これからも宜しくお願い致します。
さて、最後に個人事業主、もしくは経営者の方にお知らせです。プロ復帰にわたって、スポンサーの募集を行いたいと思います。そうは言っても、現状ではスポンサー様に大きなメリットがあるとは思っていません。
寧ろ、今までたくさんの方の支えがあって、ここまで来れたので小さなことから何か恩返しをさせて頂きたいと思っています。そう考えた結果、私が運営するウェルビーイング池上チャンネル(チャンネル登録者1580人)と弊社副社長の深澤哲也が運営するらんラボチャンネル(チャンネル登録者2万5千人)に出演する際のTシャツに屋号や社名を貼らせて頂きます。
プロのスポーツ選手がユニフォームやジャージに色々な会社のロゴをつけているあれのことです。
どちらのチャンネルもチャンネル登録者数は増え続けており、どこかのタイミングで月5万円からスポンサー様を募集する予定ですが、このタイミングでお申し出頂いた方には先着3名様限定で今後もずっと無料で屋号、もしくは社名をTシャツに貼らせて頂きたいと思っています。
もしも、今後独占でスポンサー権を買い取りたいという会社や個人事業主様が現れた時にはそこで契約は終了となりますが、今のところそのような見通しもありませんし、今のところ無期限で宣伝させて頂きたいと思っています。
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