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日本一詳しくて難しいLLLT解説

更新日:7月16日



 今回は改めて私がトレーニングからの回復促進、故障の治癒促進のために愛用しているLLLTの理論解説をさせて頂きたいと思います。


 先に書いておきたいのですが、「そんな難しいことは良いから、手っ取り早い結論を述べよ」という声が多々あるのは重々承知しております。要はそれを使ったらどうなるのかということが知りたい、これが消費者の本音です。


 ですから、簡潔に述べさせて頂くと「600nmから1000nmの波長の光線を人体に照射すると細胞の自己統制力が増し、自然治癒力やトレーニングからの疲労回復過程が促進される。その600nmから1000nmの波長の光線をスイッチ一つで出せるようにしているのが、LLLTやレーザー、レッドライトなどと呼ばれる商品である」となり、以上終了です。


 ところが、面白いものでこれだけ説明したら説明したで「胡散臭い。本当に効くのか。もっとちゃんと説明してほしい」と怒られてしまうのが我々商人です。まあ、そんなことでめげていたら務まらない仕事なので別に構わないのですが、今回はどうせなら思いっきりちゃんと解説しようということで、全て解説させて頂きます。


 今回はただのLLLTの説明だと思って頂きたくありません。何故なら、この記事を読み終わる頃には、特殊相対性理論、量子力学、人体の仕組み、何故人はガンやアルツハイマーや二型糖尿病や脳卒中などのいわゆる生活習慣病にかかるのかということまで含めて理解できるようになっているからです。


 本記事では大きく分けると三つの要素に分かれます。一つ目は、そもそも光線とは何かという部分です。そして、二つ目は人体はどのような仕組みになっているのかということであり、三つ目は光線を人体に照射すると何が起こるのかということです。それでは順に見ていきましょう。


光線とは何か?

 光線というのは要するに、光のことなのですが、日常言語で光という場合とは少し区別して考えなければいけません。日常言語で光という場合には、光と闇や光と影という言葉に代表されるように明るさを指し示すことが多いです。『若きヴェルテルの悩み』や『ファウスト博士』などで有名な文豪のゲーテの臨終の言葉は「もっと光を(mehr Licht)」でした。


 死ぬ間際にもう一度太陽の光が見たかったのか、それとも文豪らしくもっと意味深な言葉だったのかは誰にも分かりませんが、一つ言えることは通常は「もっと光を」と言われたら部屋を明るくするということです。


 しかしながら、光線の場合必ずしも明るさを指すわけではありません。何故ならば、様々な色の波長があり、中には目には見えない光もあるからです。我々が色を認識するのは波長の違いを認識するからです。これも物理的な波長の違いとその波長を認識する器官をもつかどうかという客体と主体の二つの要素を考える必要はあります。


 要は動物によって認識できる色の種類が異なるのです。例えばですが、シマウマのあのシマウマには何の意味があるんだと思ったことはないでしょうか。大草原の中にあんな白と黒のシマシマがいたら、肉食動物にとっては格好の標的にならないのでしょうか。心配になって迷彩服をプレゼントしてあげたくもなります。


 ところが、ほとんどの動物には緑というのは識別されず白と黒くらいにしか識別されないらしいです。つまり、我々にとっては緑の中に白と黒のシマシマがいるように見えていても、ライオンにとっては白と黒の木々の中に白と黒のシマシマがいるようにしか見えないので、あれでちゃんと迷彩服になっているそうです。


 逆に、人間には認識できないけれど、動物には認識できるというパターンもあり、モンシロチョウには紫外線が見えるそうですが、人間には見えません。紫外線は紫の外側の光線であり、波長が短すぎて人間には見えません。逆に、赤の外側にある光線は赤外線で、これも人間の目には見えません。


ここまでは皆さまなんとなくご存知だと思います。では、ここから更に一歩進んで考えたいのですが、一体光とは何でしょうか?


光線とはどのようなものでしょうか?


 光線が我々の網膜に到達し、それが電気信号に変換され、その電気信号が我々の脳に送られ、我々の意識の中にある像(今私やあなたが見ている世界)が立ち現れるということは分かります。では、一体何が我々の網膜を刺激し、それを媒介しているものは何でしょうか?


もう少し分かりやすい例を出しましょう。


 野球をしていてボールが私のおでこに直撃したとしましょう。いや、せっかくなので有名な宇野さんに登場してもらいましょう。ピッチャーは中日ドラゴンズ星野仙一、バッターは巨人軍山本功児、星野投げた、山本打ったー、打球はふらふらっと上がってショートとレフトの間へ、ショート宇野下がる下がる、捕球体勢に入って、あーっとボールは宇野のグラブをかすめて、宇野のおでこへ直撃、ボールは転々と左翼フェンスへ。



 この時、何が宇野さんのおでこに衝撃を与えたのでしょうか。言うまでもなく、宇野さんのおでこに野球のボールがあたったのです。野球のボールは目に見える程度の大きさであり、野球のボールの速度は人間の目に見える程度の大きさです。これは非常に分かりやすいです。


 また野球のボールの場所は一か所に限定することが出来ます。野球の試合中にボールが二つあるとか、あるいは波状に広がって広がりをもっているというようなことはあり得ません。野球のボールは一つです。これはのちに重要な点になってくるので、押さえておいてください。当たり前すぎる話ですが、野球のボールは同時に複数の場所には存在しないし、波のように広がっている訳でもありません。日常言語では点で指し示すことが出来ると言えます。


 数学的には点というのは大きさゼロなので、数学者からは反論があるかもしれませんが、日常言語においては点で指し示すことが出来ると言えるでしょう。


 次に、もう少し分かりにくいものを考えると音があげられます。音は目には見えません。またその速度も秒速340mなので、普通に生活しているとタイムラグを感じることが出来ません。私の粗末な家程度の広さだと秒速340mで進む物体は一瞬で到達するので、家の端っこ同士で会話をしていてもタイムラグを感じることはありません。従って、音には速度がない、つまり発せられると同時に向こう側に到達すると考える人がいても不思議ではありません。


 ただ、それでも音に関しては昔から速度があると考えられていました。何故ならば、雷が光ってから音が聞こえるまでに時差があったり、花火がぴかっと光ってからドーンと音が聞こえるまでに時差があることを経験的に知っているからです。また、音というのはある程度であれば、間に遮蔽物があっても聞こえます。


 例えば、私が自室に閉じこもって部屋の扉も窓も全て閉めるとします。そして、大きな声でリビングルームにいる人に話しかけると、それでちゃんと聞こえるはずです。当たり前と言えば、当たり前ですが、考えようによっては当たり前ではありません。


 何故なら、これが野球のボールであれば、あり得ないからです。閉じられた部屋の中から思いっきりボールを投げても壁にあたって跳ね返ってきます。


 一方で、音は閉じられた部屋だと小さくはなってしまいますが、一応隣の部屋まで届きます。理由は二つあって、音は波だからというのが一つの理由です。野球のボールは同時に一つの場所にしか存在できないので、常に方向は一つだけです。コントロールの良いピッチャーに対して、針の穴を通すという形容をすることがありますが、逆の言い方をすれば、針の穴程度の範囲内にしか影響を及ぼすことは出来ません。


 一方で、音は波の広がりをもって四方八方に広がっていきます。ですから、とりあえず大きな声で叫べばとなりの部屋まで声が届きます。なにも鍵穴から出ていって、その鍵穴を通す程度の範囲内にしか影響を与えられないということはありません。


 そして、波には必ず媒質があります。要は何が波状に広がっているのかということです。目に見える媒質としては水やギターの弦があげられます。海の波や池に石を投げ込んだ時に広がる波紋やギターの弦をはじいた時に振動は目に見えます。空気は目には見えないので、音が波状であることは実感しにくいですが、音は空気の振動として伝わり鼓膜を震わせ、それが電気信号に変換され、脳に送られた後で我々の意識へと立ち現れます。


 ちなみに、視覚情報も聴覚情報も電気信号に変換されて脳に送られた後、それが如何にして我々の意識に立ち現れるかは判明していません。ただの電気信号と我々の意識の間には明らかに隔たりがあります。この話は本題からそれるので今回はやめておきます。


 話を整理するとこの世の中の物体は野球のボールのように点で動いているか、波で動いているのかのどちらかであり、波として動いているものには必ず媒質があります。そして、野球のボールのように点で動いているものは粒子と呼ばれます。


光は粒子か波か

 では、光は粒子でしょうか、波でしょうか。すでにLLLTをご購入いただいている方もたくさんいらっしゃいますが、LLLTにスイッチを入れてその光線が自分の体に届く時、それは野球のピッチャーが投げる速球のように真っすぐに届くのでしょうか。それとも、音が鼓膜を震わせるときのように波で届くのでしょうか。


 すでに本記事の冒頭にLLLTとは600nmから1000nmの波長の光線を出す機械のことであると書いてしまったので、当然波だと思われる方が大半だと思いますが(思わなかった方はもう少し注意深く読んで下さい)、実は光は粒子であり、波でもあります。


 この説明で納得できるでしょうか?


 私は納得できません。少なくとも目に見えるものの中で粒子であり、同時に波であるものなど存在しません。というか、意味が分からないんです。粒子であるということは広がりを持たないということです。波であるというのは広がりを持つということです。粒子でもあり、波でもあるということは、広がりを持つけれど、広がりを持たないということです。いや、どっちやねんと関西人なら例外なくツッコむはずです。


 これを粒子としての性質も持つし、波としての性質も持つと考えると分かりやすいと思います。粒子としての性質としてはビリヤードの球を思い浮かべると分かりやすいと思います。一つの球が真っすぐに進んで別の球をはじきます。弾かれた球が更に進んでいき、他の球をはじきます。これが粒子としての性質です。


 では波としての性質にはどのようなものがあるでしょうか。


 その一つに干渉波を形成するというのがあげられます。干渉波というものを説明するときに、海の波を真上から見た映像を想像して下さい。波がほぼ真っすぐに沖から浜辺へと押し寄せます。その時に、上から木の板を差し込んで波をせき止めるところを想像して下さい。そこで、波はせき止められるのですが、その木の板に二か所だけ穴を開けておきます。



 そうすると、その穴からまた波が出てくるのですが、ここから出てくる波は真っすぐではなく、玉ねぎをくし形に切って真上から見たような形になります。これを球面波と呼びます。円を真ん中で真っ二つにスパンと切ったような形です。ドラえもんポケットのあの形です。


 下図を見て頂きたいのですが、二つの穴から出てきた球面波は互いに干渉し合います。干渉し合う時に、互いに向きが同じであれば強め合うし、向きが正反対であれば消し合います。Sで表しているところは強め合っている点で、Wで表しているのは弱め合っている点です。


出典:『高校数学で分かるシュレディンガー方程式』竹内淳著


 これをスクリーンに映せば、強め合う点は映り、弱め合う点は消えるのでシマシマ模様になるはずです。これを干渉縞と呼びます。この実験は1803年にヤングという人が実際に行っていたので、光は波であると考えられていました。


 そして、時代は進み1982年に浜松ホトニクス株式会社の土屋裕さんらが行った実験では、光子を一つずつ発射し、その先に二つの穴が開いた仕切りを設けて、更にその先に光子計数機を置きました。やっていることは、先ほどの海の波と同じです。仕切りを設けて穴を二つ開けておくんです。光子というのは詳しくは後述しますが、光の1つ1つです。


 そうすると下の写真のようにきちんと干渉縞が現れます。この時、光子は一つずつ発射されています。もしも、光子が粒子であれば、つまり野球のボールのように運動するのであれば、左右どちらかの穴を通り抜けて光子計数機に到達するはずです。つまり、光子の到達する点は二か所に限定されるはずです。


出典:『高校数学で分かるシュレディンガー方程式』竹内淳著


 ピッチングマシーンみたいに変化球を投げることが出来れば、穴を通過した後に曲がるということもありえなくはないですが、そういう仕様にはなっていないですし、またここまで綺麗に干渉縞が現れることはありません。こんな風に綺麗な干渉縞が現れるのは、互いに干渉しあって干渉波を作っているからです。


 ですが、ここでまた考えて頂きたいことがあります。光が波であるならば、一体どのようにして光子一個と数えることが出来るのでしょうか。野球のボール一個というのは分かります。では、海の波一個というのはどれのことでしょうか。波一個というのは広がりを持っています。その波全体を一つの波と捉えることは出来ますが、野球のボールのように「ここ」と指をさして一個、二個と数えることは出来ません。


 上記の浜松ホトニクスの実験おいては光子を一個一個間隔をおいてとばしています。一度に飛ばす光子は一個だけです。そして、光子計数機には一点だけその痕跡が現れます。つまり、野球のボールのように一度に一球しか出てこないのです。ところが、それを何回も繰り返すとスクリーンには干渉縞が観察されるのです。


 ここで、何かがおかしいことに気づきます。光子は一度に一個しか発射されず、一回一回で見ると光子計数機には粒子的にしか現れません。つまり、野球のボールを投げたら今ここにあたったとはっきり指させるのと同じで、今ここに到達したとはっきりと指させるのです。つまり、粒子的に運動していることが分かります。


 それにもかかわらず、干渉縞が形成されるのは何故なのでしょうか。


 野球のボールが干渉縞を形成しないのと同じで、粒子は干渉縞を形成しないはずです。


 また、同じ場所から同じ方向に光子を発射しているのに、毎回到達する場所が異なるのは何故なのでしょうか。


 説明がつきません。アインシュタインは「同じことをやって毎回違う結果が出ると考えるのはバカだけだ」と言っていました。しかし、実際には同じことをやっているのに、毎回結果が違うのは何故でしょうか。


光は粒子であり、波でもある

 浜松ホトニクスの実験で、光は粒子でもあり、波でもあることは認めざるを得ないのですが、もう一つ不思議なことがあります。それは光子1つが粒子であるならば、つまり光子1つを発射して、実際に1か所にしか到達しないのであれば、どのようにして干渉を起こすのかということです。


 干渉を起こすには少なくとも二つの波が必要です。光子が一つだけ発射されて、一か所だけに到達するのであれば、当然その道中も通った経路は一つであるはずです。しかしながら、通った経路が一つしかないのであれば干渉波は起きません。


 実はこれは一つの光子が波状に広がっている、つまり同時に複数の場所に存在しているとしか考えられないのです。このことは、筆者には想像出来ません。忍者の分身の術だって、分身していると見えるけれど、実は一人しかいない、あるいは影武者を使っているというトリックがあります。あるいは所詮は漫画の中だけの話です。


 ところが、これは実際に一つの物質が複数に同時の場所に存在しているのです。ただ、私としては一つの物質が同時に複数の場所に存在しているというよりは、波が一点に収縮したという表現の方がしっくりきます。海の波も音波も池の波紋も同時に広がりをもっているということは理解できます。その広がりをもったものが一点に収縮したと考えると分かりやすいです。


 つまり、光子は波状に広がりながらも、光子計数機に到達した瞬間に一点に収縮するのです。そして、厄介なことに一点に収縮した結果どこに現れるかは不確定なのです。これをハイゼンベルクの不確定原理と言います。分からないのではなく、不確定なのです。野球のピッチャーが投げるボールというのは、打者にとっては投げた瞬間にどういった軌道を描くは分かりません。だから、変化球につまったり、ボール球を振らされたりするのです。


 ですが、投げた瞬間に、ボールがピッチャーの手を離れた瞬間にボールの軌道は決まっています。例え、それがナックルボールであったとしてもです。ナックルは投げた本人にもどのように変化するかが分からないボールですが、それは分からないだけで、不確定なのではありません。投げた瞬間に決まっています。


 ところが、光子がどこに到達するかは不明なのではなく、不確定なのです。しかしながら、この世の中に不確定なことなどあるでしょうか。


 例えば、懐中電灯のスイッチを入れた後、光がどこに届くかは不確定なんてことがあるでしょうか。今まで一度でも懐中電灯の光がどこに行くか分からないなんてことはあったでしょうか。ありませんよね。


 実は一つ一つの光子がどこに届くかは不確定ですが、その確率は常に一定です。懐中電灯のスイッチを入れるとものすごい数の光子が発射され、それぞれがどこに到達するかは一定の確率で決まっています。ですから、全体としてみればその運動は常に一定なのです。ですから、我々はまさか光子一つ一つの行く末は誰にも分からないとは思わない訳です。


 というか、そもそも光を分解すると光子という一つ一つの小さな物体にまで分解できるという発想がないですし、その光子一つ一つが運動しているという発想がないですよね。少なくとも私のような凡人にはありませんでした。


 ちなみに、アインシュタインは光子一つ一つの運動も不確定なのではなく、まだ我々には解明されていないだけだと考えていました。それが有名な「神はサイコロを振らない」という言葉です。ただ、アインシュタインは1955年にお亡くなりになられています。浜松ホトニクスの実験結果を見て、アインシュタインは更なる反論を考えたのでしょうか、それとも自らが誤っていたという結論になったのでしょうか。


 大天才の考えることは私には分かりません。一つ確実に言えることは、「ミクロな物体は同時に複数の場所に存在しているがマクロな物体との接触が起きるや否や(例えば人間が観測する)一点に収縮する」というボーアやハイゼンベルクらの考えに対して