ウェルビーイングオンラインスクール批判
本日は改めてウェルビーイングオンラインスクールを批判してみたい。
まだ、ウェルビーイングオンラインスクールが何か分かっていないという方の為に、念のために申し上げておくと、ウェルビーイングオンラインスクールはプロの知識と経験をあなたにインストールし、超効率的努力を実現させることで1年後、2年後、3年後に中長距離走、マラソンが劇的に速くなるハイテクシステムであり、ロンドン五輪男子マラソン代表の藤原新さん(マラソン2時間7分48秒)をはじめとし、これまで600名以上の方にご受講頂き、多くの方が実際に劇的に記録を伸ばしてこられています。
さて、そんなウェルビーイングオンラインスクールを批判してみたいと思うのですが、先ず初めに考慮しておきたいのが時代背景です。何事もそうですが、それを生み出す時代背景というものが多分に影響してくるものです。
先ずは今の時代、あるいはウェルビーイングオンラインスクールが生み出された今から7年ほど前がどういう時代であったのかと述べておきますと、先ず第一にマラソン人気というものがあります。もちろんこれは、7年前に限定した話ではなく、日本人はずっとマラソンが好きな国民です。あるいは駅伝と言っても良いでしょう。
戦前からあるスポーツというのは、野球、相撲、駅伝くらいのものです。もちろん、テニスなども一部あったのは事実ですが、大掛かりな大会があり、大衆文化として根付いていたのは野球、相撲、駅伝くらいのものであり、それに陸上競技と水泳を足しても良いというくらいのものです。
ところで、あなたは今おいくつでしょうか?
ほぼ全員が70歳以下、1990年以前にお生まれのはずである。私より年少者というのはわが社のお客様にはほぼいません(無視している訳ではないので何卒ご了承を。年少者の方のご尊顔も何名か浮かんでおります)。
ということはどういうことか?
先ず第一に、全員が完全なる戦後生まれであり、なおかつ東京五輪銅メダリストの円谷幸吉さん、メキシコオリンピック銀メダル獲得の君原健二さん、そして先述の円谷幸吉さんの自殺、宗さんご兄弟の始まりから瀬古利彦さん、中山竹通さんへと続く日本男子マラソン界の全盛期、谷口浩美さんの東京の世界選手権金メダル、森下広一さんのバルセロナ五輪銀メダル、高橋尚子さんのシドニー五輪金メダル獲得、野口みずきさんのアテネ五輪金メダル獲得、この流れの中の少なくともどこかを生きてきたということである。
そして、今から70年前の1956年は日本経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた時代であり、1969年には農業基本法が制定された、つまり日本人は貧困から抜け出し始めたのが1956年、日本人の食が豊かになり始めたのが1969年ごろである。

一国の経済というものは先ずは食が発展し、次に生活が便利に豊かになる工業が発展し、最後に娯楽が発展するという風になるのが基本である。つまり、どういうことかと言えば、食が発展し、車や電気洗濯機、電気冷蔵庫などの家電が発展し、そしてそれから様々な娯楽が盛んになった。

1980年代に入ると、世界の覇者たちは驚異的な発展を遂げた極東の国家が目障りになってきた。大東亜戦争で叩き、その後の焚書坑儒と言論弾圧による思想改革、原子爆弾を背景にちらつかせながらマッカーサーの書いた憲法を日本国憲法として押し通し、軍隊を解体(皮肉なことに自衛隊の前身である警察予備隊を作ったのもそのマッカーサーであり、朝鮮戦争に備える為である。そのマッカーサーも「北朝鮮と中国の国境線に原爆を100発落とせば勝てる」と大統領に直言し、解任せらるる)し、二度と歯向かってくることがないと思っていた日本が今度は経済戦争で米国に勝負を挑んできた。
勿論、当の日本人にその意識は全くなかったが、結局外圧をかけられて実現したのが労働基準法。幸か不幸か、日本人の中流階級はさらなる余暇を享受することになる。
これらの要素は非常に重要な要素である。経済発展と科学技術の進歩により、肉体労働者の数が激減し、個人の生活、つまり私生活においても運動の機会が激減し、更に様々な食べ物、飲み物が登場し、食べたいだけ食べられるようになると、今度は健康を損なう人が増えるとともに、体を動かしたいという欲求が出てきたのである。
しかし、いきなり40歳を過ぎてから体を動かしたいと思っても、団体競技である球技では他の人の脚を引っ張ってしまう。そうなると、筋トレとマラソンしかないのである。金持ちはトライアスロンに行く傾向があるが、中流階級にとってはマラソンの方が一般的な選択肢である。
そもそも論であるが、マラソンは日本人の血の中に流れている。おそらくそれは、何かに没入するという日本人の精神性にあるように思う。
欧米人というものは対象物をはっきりと認識する傾向にある。つまり、流れを掴む、雰囲気を掴むのではなく、ある対象をはっきりと認識するのである。科学的な思考、合理的な思考というものはここに大きく発達した。良くも悪くも欧米人は金儲けと戦争が上手であるが、これも対象や目的を明確にし、そこから逆算して戦略を立てるとともに、その対象物を深く研究するというところにあるように思われる。
一方で、日本人は場の空気に身をゆだねるのだ。マラソンの身体感覚もまさにそれである。何かに集中するというよりは、何にも集中せずに、その場の雰囲気、身体感覚、風景、景色、虫の音、鳥の鳴き声、車の音、風の音、そういったすべての風景に自分を溶け込ませて、世界と一体化してしまうのが、マラソンの独特の集中の仕方である。気づいたらもう中間点を過ぎていたというような感覚が理想であるが、これも没入して無我の境地に入った結果であろうと思う。
それに加えて、日本人の脳裏には多かれ少なかれ歴代の英雄たちの活躍というものが刻み込まれているのである。今でこそ、田中希実さんや三浦龍司君らのトラック組も活躍しているが、日本人がメダルを獲れる種目なんて、元々はマラソンくらいしかなかったのである。
更に大きな転換は先述の思想転換である。無論、明治のあたりから日本人の西洋化というのは一部ではあった。特に、インテリと呼ばれるような人々の中には存在した。しかし、一般的にはまだまだ日本の伝統的な思想や文化というものが強く根付いていた。
それが戦後のGHQの焚書坑儒と言論弾圧による思想統制で一気に加速する。その結果として、日本人は自由と平等を手に入れた。良いことである。良いことであろうか?
もちろん、良いことも多々あった。
しかし、これは規範を失うことで自分が何者であるかが分からなくなってしまうという一種の不安をも背負うことになったのである。今の日本を見ていても、日本人なのに日本語が通じない、横文字はたくさん使うのに英語も話せない、日本人独特の空気を読む文化、同調圧力に辟易とし、自由や個人の権利を主張しながらも欧米人ほど強く個人の権利を主張できる訳でもなく、また出る杭を打とうとする、男なのに弱い、頼りない、向上心がない、イケメンかもしれないが、女ほど外見が美しくもない、女のくせに生意気で偉そうな口をきくが、男のように体力がある訳でもなく、労働意欲が高い訳でもなく、闘争心や向上心が強い訳でもなく、頭が良い訳でもなく、頼れる訳でもない、何者かよく分からない人が街にあふれてはいないだろうか?
では、戦前の人間は皆そんなに立派な人間であったのかというとそうでもないであろう。しかし、先ず第一に、規範というものがあり、男はこういうものである、女とはこういうものである、長男とはこういうものである、家長というのはこういうものであるという一種の規範があり、その規範に従っておれば、一応何者にかはなれたのである。
また、社会における役割というものもあり、その代表が男は外に出て力仕事をする、女は家で家事と育児をする、農家の家の子は農家になる、武士の家の子は武士になる、商人の子は商人になる、漁師の家の子は漁師になるという明確な役割分担があったので、この観点からも比較的自分が何者であるかが容易に決まったのである。
明治維新後の日本において、この自分が何者であり、どのように生きれば良いのか分からないという現象の第一次が起こるが、明治維新後はこの現象がインテリの間にのみ起きた。
戦後直後の日本においては先ずこの現象がインテリとインテリの下層の方に広がるが、これは大学進学率の向上とも関係がある。そして、その傾向は年々加速している。簡単に言えば、良くも悪くも個人主義が加速し、社会とのつながり、社会における自分の役割が無くなっているのである。
良く言えば、我々は年々自由に平等に、そして余暇が増えているのである。しかも、今の日本の中流階級は非常に裕福である。週に40時間の労働でこれ以上豊かな中流階級など、未だかつて地球上に一度でも存在したであろうか?
個人主義が加速し、物質的に満たされ、更に子供がある程度大きくなり、手がかからなくなると、日本人とマラソンの相性は非常に良い。これ以上ないくらい良い。個人種目で、更に勝ち負けがはっきりとつかず、皆が自分との戦いに挑む。つまり、自由で平等なのである。戦後の左翼思想家達が狂喜乱舞しそうなスポーツである(それでも順位がつくのは不平等なので、皆で手を繋いでゴールしましょうと言い出す輩はいるだろうけれども)。
しかし、日本人の思想、民族性というものがたかだか90年くらいで変わる訳がない。日本人はずっと皆で何かを一緒にやるのが大好きな民族である。日本人は集団の中に溶け込み、場の雰囲気や空気と一体化するのが大好きな民族である。
実はこの観点からもマラソンは相性が良い。マラソンは個人種目であるから、チームの脚を引っ張ることがない、この観点から他人に迷惑をかけるという気兼ねがない。しかし、皆で一緒に走ることが可能である。これがマラソンの魅力であり、その魅力を加速させたのがインターネット、さらにはSNSである。
これによって各種イベント、練習会や小さな大会、記録会、タイムトライアルなどの開催が加速し、それに加えて、仮に物理空間で繋がれなくても、SNS上で同志と繋がることが容易になった。
個人の自由が保たれつつも、社会や人とのつながりが保てている、そして、自分が何者であるかが不明瞭な現代社会において、サブ3ランナーやサブエガランナーという何者かになることが可能である。
これが現代の市民ランナー界の現状である。
では、日本のマラソナーは市民ランナーだけなのかというともちろんそうではない。
他の二大勢力というのがあり、一つは競技者、もう一つは学会である。
競技者の世界というのはエスカレーター、あるいはベルトコンベアー式である。基本的には、中学校である程度の成績を残したものが強豪高校に行き、そこでさらにある程度の成績を残したものが関東の私大に行き、つまりは箱根組になり、そこでさらにある程度の結果を残したものが実業団に行く。
この流れから一度でも落ちた人間の行き場というものは基本的にはない。つまり、一度でもこの流れから落ちた人間は基本的には競技者の世界とは断絶されるのである。実業団というのは上流社会の社交クラブのようなもので、庶民が簡単に入れるような世界ではないのである。
先ず、ここに第一の競技者界と市民ランナー界の断絶がある。しかし、この断絶は少しずつ融和されては来ている。これもやはりインターネットの力である。
しかし、それで断絶が解消されて、上手くいくのであろうか?
人と人とが結びつくためには役割分担というものが必要である。つまり、互いが異なる何かの役割を担って交換関係になるか、若しくは同じ志を一にして、一つのものを目指すのかのどちらかになる。
無論、競技者組が欲しいのは富と名声である。ありていに言えば、セカンドキャリアに困るのである。消極的にセカンドキャリアに困るから、市民ランナーさん対象の商売を始めるのか、あるいはもっと積極的に、競技者としての生活は終えて、次の目標として市民ランナーさん対象の商売で頂点を目指そうと考えるのか、積極と消極の違いはあれど、求めるものが富と名声、あるいは富と認知度であることに変わりはない。
では、市民ランナーさんは競技者の方に何を求めるのか?
言うまでもなく、長距離走、マラソンが速くなるノウハウ、方法論である。では、競技者たちはそのノウハウ、方法論を持っているのか?
実は大半の場合は否なのである。自分がこうやって結果を出したということは語れる。しかしながら、それを体系化し、こういう法則や原則があり、これをこのように応用すれば誰がやっても速くなるというような一般論にまで持っていけてはいないのである。
ちなみに、指導者層も同様である。強豪校の指導者をやっていれば、毎年同じような力の子達が入ってくる。だから、毎年微調整を加えながらもなんとなく同じようにやっていれば、同じような結果が出るのである。特に、2代目、3代目の指導者になるとこの傾向は非常に強い。
面白いことに、競技者として結果を出す能力は会社員や公務員として結果を出す能力に、強豪校を指導して結果を出す能力は会社員や公務員の中間管理職に非常に似通っている。
つまり、競技者と市民ランナーの断絶はきっかけがないからというだけではなく、そもそも互いが互いに求めるものを交換する関係性に普通はなっていないのである。
では、学者たちは方法論を持っているのだろうか?
残念ながら、これも多くの場合は持っていない。何故ならば、彼らの多くは現場を知らないからである。戦後、あるいは明治維新後のインテリ層の特徴をそのまま持っているような学者は決して少なくない。つまり、観念の世界に生きており、研究室の世界に生きており、この現実世界を生きていないのである。
ある学術的知識を持っていることと、その知識がこの現実世界でどのくらい役立つかということは天と地ほどの差がある。最大酸素摂取量という概念だけ持っていても、その概念をどのように長距離走、マラソンが速くなるということと結びつけるのか、役立てるのかという観点や手法を持つことにはならないのである。
あるいは人間が結果を出す上で最も重要な要素の一つである心というものをよく知らないのである。結果を出す上では、あるいは結果を出させる上では結果を出す為の心の使い方というものに精通していなければならない。
つまり、現場で走っている市民ランナーさんや競技者、あるいは競技者の指導者たちとの断絶は必ず問題として立ちはだかってくるのである。
そして、最大の問題はこの三者を縦横無尽に行き来できる人がいないことである。普通、競技者は勉強なんかできないし、そもそも高校も大学も陸上で入るような人が大半である。もちろん、就職も陸上でしている人が実業団選手である。
学者はハーフマラソン65分切りとかマラソン2時間15分切りとかいうような競技能力を普通は有しないし、そこまでの努力もしていない。
市民ランナーさんの大半はいわゆる普通の会社員、公務員の方々である。学者の道に進んだわけでもなく、実業団選手になった訳でもなく、もちろんプロランナーなどという訳の分からない職にも手をつけていない。
では、この三者は対立構造にあるのか?
実は対立構造にはない。競技者の人たちはセカンドキャリアとして、自分の知識や経験を活かして生計を立てられるのであればそうしたい、学者は被験者として競技者や市民ランナーさんが欲しい、市民ランナーさんはそれが研究者から来たものであれ、競技者から来たものであれ、自身の走力向上に役立つ情報が欲しいのであれば、それが欲しい、競技者も何か研究者の方から競技力の向上に有益な情報があるのであれば欲しい。
この三者は本当は仲良くなれるはずなのに、それらを繋ぐ媒介者がいないことが問題なのである。逆の言い方をすれば、この三者を繋ぐ媒介者が必要とされているのである。
そこで、悠々と肩で風を切りながら調子にのって「誰もがいないのであれば私がやろう」と思って作ったのがウェルビーイングオンラインスクールである。
競技者たちの汗と涙の結晶、研究者たちの長年にわたる研究の成果、それを市民ランナーさんが実践して速くなるように情報を加工して、まとめあげたのがウェルビーイングオンラインスクールである。
つまり、プロ(競技者と研究者たち)の知識と経験をあなたにインストールし、超効率的努力を実現し、1年後、2年後、3年後に中長距離走、マラソンが劇的に速くなるのがウェルビーイングオンラインスクールなのである。
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