秋の喝采
*こちらの作品はフィクションです。
「はいっ45,46,47、48。48秒!」
「はい!」
7時台のグランドでは、テニス部と陸上部だけが練習をしていた。短距離はグランドの真ん中で、長距離はその周辺を周回する形で200mトラックを30周する。毎朝地獄と長距離部員たちの恐れる練習である。
霧の都で有名な京都府亀岡市は秋から冬にかけては霧が非常に深く、朝練習の時間帯は200mトラックという小さなトラックの反対側がかすんでしか見えない。
「おいっ、坂根つけよ!離れんな!」
力のある者が力のない者を励まし続けるが、力のない者はどんどん遅れていく。
「40秒です」
「はい!」
「終了です!」
「はい!」
最後に残ったわずか2,3名だけが一緒に練習を終了する。毎日同じメンバーだけが練習を共に終えていた。朝練習後の解放感は何とも言い難い、至福のひと時に皆が包まれる。8時25分のエーデルワイスが鳴り終わるまでに、教室に入り、着席していなければならないが、それまでおしゃべりしながら着替えたり、外の水道で顔を洗ったり、うがいをしたりして、わずかな時間を過ごす。
「おいっ、横山見ろよ。長谷川さん来たぞ」
「もうええって、俺別に好きちゃうから」
「あっ、ヤバい!社会の教科書忘れた!中澤ちょっと貸してくれへん?」
「えっお前社会何限目?」
朝練習の無い生徒たちが8時25分に間に合うように続々と登校してくるのを見ながら私たちはいつも着替えていた。
3限目。
「号令!」
どす黒い肌の色にどすの聴いた声で教室に入ってきたのは、体育教師の叢雲(むらくも)だ。まだ、30半ばで昔100m10秒台で走った体力はまだまだ健在で、サングラスをかけたその姿はヤクザにしか見えないので、あだ名は「やーさん」。
「おーし、授業始めるぞ~、教科書15ページ開けい。誰か読んでくれる人~?」
私は音読は嫌いではない。初見でも割とすらすら読める方ではあるし、テストの点数が多少悪くても、先生の心証が良ければ多少のお目こぼしもあるだろうと期待して、こういう時はいつも手を挙げる。
それに加えて、叢雲先生の場合、陸上部が積極的に授業に参加しないと「おいっ誰の授業やおもてんねん!」と後でどすのきいた声でお叱りを受けることになる。
私は迷わずに挙手をした。叢雲先生を見ずに、真っすぐ前を向いたままこの上ないくらい指先まで伸ばして挙手をした。間髪入れずに叢雲先生が「はいっ、池上」と名指しする。私もまた、間髪入れずに、叢雲先生が言い終わるか言い終わらないかのうちに読み始める。
「運動を行うと人の体には様々な変化が生じます。この様々な変化のうち好ましいものを適応反応と言います。例えば、重いものを持ち上げるという運動を毎日続けていると、徐々に筋肉がつき、より重たいものを持ち上げることが出来るようになります。これが適応反応の一例であり・・・」
国語の授業でもない限り、読めない漢字はなく、この日もすらすらと読むことが出来た。
「次に述べます原理は特異性の原理と言います。これは人間の体はかけた刺激に対して特異的に適応するという原理のことであり、野球をすれば野球がうまくなる、サッカーをするとサッカーが上手くなる、バスケットボールをするとバスケットボールが上手くなる、水泳をすると泳ぐのが上手になるし、100m走を全力で走ると100m走が速くなるという原理のことを言うです」
「はいっ、池上ありがとう、座って」
叢雲先生以外の人間が話すことでなんとなく教室の雰囲気が緩み始めるとともに、陸上部以外の生徒はなんとなく、陸上部の生徒ではないという安心感が漂い始める。しかし、私は自分が読み上げたある文章に引っ掛かりを覚えていた。
その日の昼休み、私は長距離主将の横山を訪ねた。横山と私はクラスが異なるので、保健体育の授業は一緒に受けていない。
「おいっ、横山何寝てんねん」
「はぁ~、なんやねん。お前かよ、うるさいな~。他教室侵入禁止やぞ」
「固いこと言うなや。廊下で話すか、ここで話すかどっちが良いねん」
「俺は寝たいねん。さっさと話してどっか行ってくれ」
「お前、特異性の原理って保健で習った?」
「習ったで。お前まさか分からんの?」
「いや、分かんねんけどさ、特異性の原理があるんやったらさ、俺らの練習毎日3000mのタイムトライアルで良くない?」
「はっ?ふざけんなよ。そんなきつい練習毎日やってられるか」
「いやいや、お前よく考えてみろ。30周ジョグだって、あんなもんタイムトライアルみたいなもんやんけ。けど、30周耐えなあかんのやで?午後練習も60分ジョグとか20分ジョグ4セットとかめっちゃ時間かかるやん。毎日3000mのタイムトライアルやったら、練習時間はめっちゃ短くなるで?」
「まあ、そう言われたらそうやなあぁ。いや、けど毎日タイムトライアルは無理やって。そんなんやったら俺陸上部やめるわ」
「いやいや、話聞けって。お前さぁ、体育の持久走、毎回全力で走ってるか?」
「うん、まあ手抜きしてるなぁ」
「せやろ?手抜きしたってどうせ先生には分からんやん」
「いやけど、試合の日だけ明らかに速くなったらおかしくない?」
「試合の日はタータントラックでスパイク履いて走るんやから速くなるに決まってるやん。それで話済むって」
「なあ、どうせやるんやったらさぁ、速くなった方が良くない?しかも毎日速く帰れるんやで?一石二鳥やん?」
「え~、いやでも毎日3000mタイムトライアルはきついわ~」
「毎日じゃないやん。だいたい毎週抜きの日が1回あるやろ?ほんで、どうせ日曜日は休みやんけ。だから、実質週5やん」
「っていうか、そもそもやけどさ~、ホンマに特異性の原理で速くなるんやったら皆やってるくない?なんで、俺ら30周ジョグとか60分ジョグとかやってるん?」
「そら、あれやろ。先生も毎日3000mタイムトライアルはきつすぎると思ってるんやろ。俺らがやるって言ったら、先生もやれって言うって」
「じゃあ、お前だけやれよ」
「あほか、俺だけやっても早く帰れへんやんけ」
「しゃあないなぁ、皆で言いに行く?とりあえず、午後練習の時に皆にも聞いてみようや。俺はとりあえず、寝るわ」
「OK、じゃあそうしよ」
その日の午後練習、甲斐、中澤、坂根、横山、私の同級生5人で話し合った。我々長距離部員には一学年上が一人もおらず、2年生5人の我々が最上級生である。
皆結局30周ジョグがタイムトライアル状態になっていたので、結局3000mタイムトライアルでも変わらんやろということで全員賛成ということになり、副主将の私と主将の横山の二人で長距離顧問の堂上先生のところに行くことになった。
私の方が説明も上手で堂々と話せるが、立場上は横山が話すことになる。
「失礼します。堂上先生いらっしゃいますか?」
先ずは職員室の入り口で堂上先生を呼び出す。まだ、20代の若い女性の先生である。小柄な体を身軽に移動させてこちらに来たが、その顔は気持ち緊張していた。何かただ事ではない雰囲気を感じていたようである。
「はいはい、どうした?」
「実はかくかくしかじかで」
横山がたどたどしい説明を続けると、堂上先生はにやにやし出した。なんだ、そんなことかと言わんばかりである。
「誰のアイディアや。池上、お前やろ?」
「いえ、皆で話し合って決めたことです」
「ホンマか?まあ、ええわ。とりあえず、一か月実験してみるか?ただし、上手くいかへんけどそれでもええか?」
我々は早く帰りたいだけである。はっきり言って、上手くいくか行かないかはどちらでも良い。しかし、上手くいかなかったらどうなるのかが気になる。
「上手くいかなかったら一か月でやめるんですか?」
「そらそうやろ。上手くいかへんのに、続けても意味ないやんか?どうせやるんやったら、速くなる方が良いやろ、違うか?」
そんなことはどうでも良いというのが本音ではあったが、そうではないとも言えない。
「それは、まあ、速くなりたいです」
「せやろ?速くなる為に毎日苦しい練習してるんやろ?まあでも、ええわ。あんたらの納得のいくようにやってみ」
「ありがとうございます」
私たちは職員室を出た後、にやにやしながら目くばせをした。
「俺たちには特異性の原理がついている。遅くなる訳がない。これで卒業するまで毎日早く帰れるな」
「ああ、そうやな」
一か月後
ここで頑張らなければ、毎日遅くまで練習している短距離を尻目に毎日早く帰っていた日々が終わってしまう。何がなんでもやらなければ。そう、意気込んで我々は走り出した。
私は走り出して早々に先頭に立つと、後ろを振り向かずに走りつづけた。
「3分15、3分16、3分17、3分18」
嘘やろ?
3分8秒の間違いちゃうんか?
あれっ、ちょっと待てよ。俺で3分18秒やったら、後ろどうなってるん?
とにかく、私は悪夢を断ち切るように残りの距離を全力で走った。ゴール後地面に倒れ込む。他の面々もゴールに続々と飛び込む。平日の競技場は我々で貸し切りであった。寂しげなタイムトライアルの結果は全員3000mで40秒ほど遅いという結果になった。
「今日はご苦労さん。明日の午後練習は視聴覚室に集合で」
てっきり怒られると思っていた我々は拍子抜けした。しかも、明日の午後練習は実質休みということか?
次の日の午後の視聴覚室。
「はいっ、一か月間ご苦労さんでした。もう皆結果を見たら分かると思うとおり、毎日のようにタイムトライアルという練習では上手くいきません。それは何故かと言うと、特異性の原理そのものは正しいけれど、この世界は特異性の原理だけで動いている訳ではない、つまり人間の体というものは特異性の原理だけで動いている訳ではないからです。
これを説明している学習教材があって「誰がやっても長距離走、マラソンが速くなる三大法則」というものがあります。今からこれを皆で見てみます」
叢雲先生と同じく、色が黒く私と同じ池上という名前の男が何やら白板を前に解説していた。叢雲先生ほど色は黒くなく、声もドスのきいた声ではなく、どちらかと言えば飄々とした雰囲気で、仙人のようでもあり、同時に軍人さんのような厳かな雰囲気もあり、という感じの男である。
なんとなくではあるが、学級文庫の中にある「サイエンスフィクション科学読本」という本に雰囲気の似ている講義である。どこまでも真剣に、真面目に、中長距離走、マラソントレーニングによって人体がどのように変化するかを科学し、そしてその科学的知見から効率の良い練習例を挙げている。
視聴後、我々はこの講義で学んだことを提出させられた。
私が理解した点は以下の通りです。
「特異性の原理そのものは正しいが、適応の原則と収穫逓減の法則の両方の観点から考えなければならない。
特異性の原理そのものは正しいが、それはあくまでもトレーニング刺激に対して超回復を起こし、体が刺激に対して適応反応を起こせばの話である。そして、適応の三条件は1一度にかける負荷が強すぎないこと、2かけた刺激から体が充分に回復すること、3頻度が高いこと、の3つであり、以上の3条件から考えると、練習は中強度中量高頻度が基本となる。
また、収穫逓減の法則に従い、競技力が低ければ低いほど、中強度中量高頻度の練習で走力は劇的に向上する。まだ走歴1年半程度の我々中学生は中強度中量高頻度の練習を中心に組むべきである。
以上が基本ではあるが、特異性の原理に従い、ある程度はレース刺激に近い練習を組んだ方が良いので、年間を通して期分けというものを行い、基礎構築期においては中強度中量高頻度を中心に練習を組み、そのあとはその型をなるべく崩さないようにしながら、京都府中学駅伝などの大きな大会に向けて、徐々に特異性の高い練習に取り組んでいく、その時、一般性から特異性へと徐々に移行させていくことが大切である」
翌朝
「昨日の講義、それから1か月間の実験結果でこれからどういう練習をやっていくべきか皆分かったやろ?これから一年間、来年の京都府高校駅伝に向けて、昨日の講義の通りに練習を組む。良いな?」
もちろん、反論のしようもなかった。私たちは、これで練習がさらにきつくなるのかと暗たんたる気持ちになったが、実際にはそうならなかった。
中強度中量を中心に練習を組むので、毎日余裕をもって練習を終わることが出来た。1か月間ほぼ毎日3000mのタイムトライアルをやり続けてきた我々からすると毎日が天国のように楽な練習だった。
しかも、楽な練習でどんどん記録が伸びていった。まさに、天国であった。
迎えた京都府高校駅伝当日、私の任務は全中7番に入った天敵太田翔には負けても良いから後続を引き離すことであった。私は序盤から先頭に立つと、抑え気味に走りながらもあまりペースが遅くならないように気をつけながら、勝負どころの登り坂と下り坂を待ち構えた。
その時が来た。
迷わずに勝負をしかける。
集団は忽ちのうちにばらけ、太田翔と私の二人になる。坂を登り切る、私は疲弊しきっていた。今度は太田翔が満を持して前に出る。私は後れを取る。登り切って、中継所へと向かう下り坂に入るために左折する。
私は左に曲がるところで後ろをちらりと見た。後続との差は充分である、私は太田を追走した。
「池上、ラスト、ラスト」
「池上先輩ファイト~!!」
コースの大半は人気のない農村であるが、ラスト300mあたりで競技場の横を通り抜けるので、急に応援が多くなる。
競技場に入ってラスト150m、こちらも余力を絞り出すが、全国大会で7番に入った太田に、近畿大会にすら出られなかった私は後塵を拝する。
「おい、ハゲ!!ラストやぞ!!」
残り20mほどに迫ったところで、スタンドにいる顧問の先生たちに聞こえない程度で甲斐が私に激励する。
2区の甲斐に「あとは頼んだ」と言い残して襷を繋ぐ。先頭と4秒差、後続と4秒差の区間2位、無事に仕事は果たしたと言って良い。
その後も順調にブレーキなく、全員が区間6番以内で襷を繋いだ。全員が地元民で構成される中学駅伝においては抜群の安定感と言って良い。最も手薄となる5区を走った中澤が9分18秒の区間賞で逆転し、2位に7秒差をつけると、そのままアンカーで主将の横山がリードを守り切ってゴールテープを切った。全国大会への出場が確定である。
「どうする?堂上先生胴上げする?セクハラにならへん?」
「一応やめとこか。あれでも一応女やしな」
20代女性の先生に気を遣う私たちの気を知ってか知らずか、堂上先生は破顔一笑で全員を抱きしめている。
「もうええっか」
「もうええやろ」
私たちは問答無用で堂上先生を胴上げした。青空にトンボが飛ぶ、綺麗な秋空だった。私はその真っ青でこの上なく秋晴れの大空を見上げながら、今日もどこかで誰かがあの少し猫背で色黒の私と同じ名前の池上という男の魔術で誰かが劇的に記録を伸ばしているのだろうかとふと思った。
「誰がやっても長距離走、マラソンが速くなる三大法則」、講義名の通り、私たち文化部には入りたくないが、球技は無理という消極的理由から長距離走を始めた面々が速くなった。
誰がやっても速くなるのであれば、あなたもやらない手はないと思うが、いかがであろうか?
新講義動画「誰がやっても長距離走、マラソンが速くなる三大法則」、8月31日までの期間限定で受講生様募集中。




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