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情報活用要綱補講

 本日は情報活用要綱の読者様に補講をお届けさせて頂きます。


 本要綱は私が「他人に正しい情報を正しく伝えて実践させる教え方」を教えるために書いたものです。もう少し具体的に申し上げますと、私自身は「他人に正しい情報を正しく伝えて実践していただき、結果を出していただく」ということが出来ていたんです。


 だから、私自身もてっきり教えるのは上手いもんだと勘違いしておりました。


 ところが、わが社の社員が増えるにつれて、私の教え方に問題があることに気づきました。人に教えることは出来ても、人に教え方を教えることは出来ていないことに気づいたのです。


 そこで、改めて人に教える方法を教えるために体系化したのがこちらの情報活用要綱なのですが、本要綱を読んでみて、ずっとどこかで見たことがあるという既視感に捕らわれておりました。


 どこかで学んだことがあるような気がするんだけれど、それが思い出せない、そんなことをずっと感じてはいたのですが、昨日急にそれを思い出しました。


 この情報の活用の仕方は私の大学時代の恩師であるイマヌエル・カント教授の認識論に非常に似通っていたのです。


 イマヌエル・カント教授はケーニヒスベルク大学で教鞭を執っておられた方です。今の国名で言えば、ロシアになりますが、当時はドイツ第一帝国の領土内であり、カント教授の母語もドイツ語です。


 独ソ戦でソ連の領土になり、現在はカーニングラードという地名になっております。


 そのカント教授の打ち立てた最も有名な理論が超越論的観念論というものです。これは人間が世界をどのように認識しているのかを説明した理論です。


 残念ながら、今日の観点から言えば不完全な理論ですが、それは量子力学の発達、あるいはカント教授がドイツ人であったことも大きく影響しているでしょう。日本人ならこんな理論を打ち立てはしなかったと思いますが、詳論は語り出せばキリがないので、その大枠を解説させて頂きます。


 大枠は今日でも充分に使えるものです。


 先ず我々人間はこの世界を感官を通じて第一の認識をします。感官はドイツ語ではDie Sinneというのですが、英語で言えば、Sensesに該当します。シックスセンスとかセンスがあるやつとか無い奴とか言いますよね?


 要するに、感覚のことだと思っていただけると良いと思います。人間には五感の他にも時間感覚や痛いという感覚や嬉しいという感覚や苦しいという感覚や様々な感覚を認識します。


 そして、その感覚したものが我々の意識の中に立ち現れる訳ですが、この立ち現れたものを表象と言います。表象はドイツ語ではVorstellungenという単語を使うのですが、英語で言うところのイメージとか、日本語で言うところの想像に該当します。


 例えば、私が深澤を見た時に深澤の顔を認識する訳ですが、この私が見ている深澤というのは私の意識の中に立ち現れている一種の映像であり、この映像を物質としての深澤とは区別して考えます。


 まあ正直この辺りは難しいので省きますが、高校の倫理の教科書で「物自体」という言葉をご覧になられた方も多いでしょう。この物自体というのが物質としての深澤そのもののことであり、その物質としての深澤を私が認識して、私の意識の中に立ち現れる深澤の映像とは区別して考えるのです。


 大きな違いとしては、今私は目の前に物質としての深澤が存在しなくても、深澤の顔をありありと思い浮かべることが出来ます。つまり、物自体が存在しなくても私の中に表象が生ずることは充分にあり得るのです。従って、一応区別して表象と物自体を考える訳です。


 で、問題はこの第一段階の感覚が生じる段階においては、我々人間の主観が入りようがないということです。パッと認識して、パッと表象が生じる訳です。ここに人間の主観が入りようはないのです。


 しかし、これに対して我々人間は無意識のうちに分類ごとに分けます。例えば、その分類の一つに原因と結果という分類があります。


 例えば、雨ごいの踊りをした後に雨が降ったとします。そうすると、人間は無意識のうちに雨ごいの踊りをしたから雨が降ったんだという風に、原因と結果という関係性で認識してしまうということです。


 カント教授は人間は12個の観点に応じて世界を認識していると主張されております。ここで重要なことは、これは本当の意味での人間の主観ではなく、無意識のうちにそうしてしまう、あるいはそういう見方もあるよね、みたいな話だと思ってください。意識的に分析を加えて、それが正しいと結論づけるというよりは、人間はほぼ無意識のうちにそのような世界の見方をしているという話です。


 この分類は専門用語では純粋悟性概念と言います。なんてこったって感じでしょう?(笑)


 感官とか表象とか純粋悟性概念とか、ありとあらゆる難解語が登場するのですが、使われているドイツ語自体はそれほど難しくはありません。純粋悟性概念はKategorie、英語で言えばCategoryですから、分類のことです。分類と訳してあげれば、それほど難しくはないのですが、まあ仕方がないでしょう。専門用語を覚えるのは哲学の道に入る際の一種の洗礼みたいなものです。


 改めて整理すると、パッと認識して、ぱっと我々の意識に立ち現れる一種の像(現象)というものがあり、それを我々は無意識のうちに12個の観点に基づいて分類しているということです。


 そして、最後に登場するのが理性です。この理性は何をするのかと言いますと、一種の推論を働かせる訳です。


 例えばですが、走っていて突如痛みが生じた、これは表象の段階です。それ自体はなんの分析も整理もなされていない、あるがまんまの感覚の世界です。これが表象。


 次に、人間は原因と結果というカテゴリーを用いて、昨日の練習で追い込み過ぎたからに違いないというようなことを無意識のうちに考えてしまう訳です。


 次に、理性を用いて何をするのかというと推論を働かせる訳です。昨日の練習で追い込み過ぎて、筋繊維が過度に引っ張られて、筋繊維がたくさん切れているに違いないというような感じです。


 カント教授が問題にするのはこの理性の段階なんです。人間はこの推論能力を過度に働かせて、推論できないものまで推論してしまう、つまり分かるはずのないものまで分かったつもりになってしまう、これを純粋理性の誤謬と言うのです。


 この一連の過程を膨大な分量をかけて説明したり、検証したり、分析したりしているのが有名な『純粋理性批判』という書物です。まあ、よほど暇じゃない限りは読むことをおススメしない書籍です(笑)


 私の情報活用要綱もあまり分かりやすくは書いていませんが、それでもあれの10倍は難解です。もし、ご希望者いらっしゃるようでしたら、解説講義を作らせて頂きます。あれは普通の現代人が読むものではないです(笑)


 何はともあれ、ふとこれを思い出してみると、私の情報活用の仕方も情報収集、情報整理、情報分析の3つに分けて考えていますが、驚くほどに似ています。


 一発目の情報収集の段階ではとにかく多くの情報を集めるだけ集めるんです。この段階では整理もしなければ分析もしない、つまり、項目ごとに分類しもしないし、推論も働かせません。つまり、いかなる主観も働かせないんです。


 パッと入ってきたものをそのままパッと記憶にとどめるなり、メモしておくなりして記憶や記録に残してしまうんです。ここでは無批判に情報を入れてしまいます。


 次の段階では整理をする訳ですが、これはそれぞれの観点、項目ごとに分類をするということです。各観点、各項目ごとに分類してしまうのが情報整理です。


 そして、最後に自分なりの主観、直感、推論を働かせながら分析を加えて一つの答えを出していきます。


 それぞれの段階において重要なことは、自分の主観を入れるのかそうではないのかを自分で理解しておくことです。情報を収集する段階では如何なる主観も観点も用いません。とにかく、入ってきたものをそのままパッと記憶にとどめるか記録に留めるかどちらかしてしまいます。


 整理の段階では分類はします。分類はしますが、ここではまだ主観は入れてはいけません。とにかく、こういう観点から言えばこうだよね、こういう観点から言えばこうだよねということを項目ごとに分類するのです。


 そして、最後の分析の段階は今度は逆に絶対に自分の主観が入ることを理解しておかなければなりません。人間は自分の主観的意見を客観的意見であるとついつい誤解しがちなのです。


 だいたいもめ事を見ていると、このあたりがごちゃごちゃになっています。情報収集の段階で主観が入り、整理の段階でもう分析が入り、そして自分の主観が入っているものを客観的事実だと思い込んでいる、このようにごちゃごちゃになってしまって、相手と自分との間で論点が整理されていないのです。


 ここがまとまらないと、次の情報伝達のステップに進めないのです。


 私の場合はどこに問題があったのかということですが、先ず私自身はこの情報収集、情報整理、情報分析が無意識のうちに出来ていたのです。ここの部分が無意識のうちに出来てしまっていたので、あとの課題は情報伝達の部分だけであったんです。


 ですから、情報伝達の部分に関してはだいぶ研究して体系化しました。ここの部分は研究して体系化したので、人に教えることが出来たんです。


 ところが、人間というものは無意識のうちに出来てしまっていることは人に教えられません。ここに私の欠点があったので、ここの部分を掘り下げてみたのです。掘り下げてみたら、何とか体系化することが出来ました。


 そして、その体系化されたものはどこか既視感のあるものだったのですが、知らず知らずのうちの恩師の作った超越論的観念論と枠組みは同じになっていたんです。


 余談と言えば余談かもしれませんが、何が言いたいのかと言いますと、私の作った情報活用要綱はそもそもの人間の認識の仕方に基づいて作られているので万人に通用するものであるし、寧ろこれ以外のやり方は難しいのではないかということです。


 繰り返しになりますが、何故ならば人間という生き物は世界の一切合切をパッと知覚する、ほぼ無意識のうちに整理する、自分なりの分析を加えるという過程を得て認識しているからです。


 また、このことが分かれば、実は自分を不幸にするのも幸せにするのも、自分の心がけ次第であることが理解できます。生きている以上ぱっと知覚するこの部分は変えられません。これは万人に共通なんです。


 しかし、そのあとの分類して、分析を加えて初めて認識が完了する訳ですが、ここの分類の仕方と分析の仕方は人それぞれなんです。


 ただ、この過程は人は無意識のうちに行っています。無意識のうちに行っており、そこにその人の思考習慣とでもいうべきものがある訳です。


 あるいは別の言い方をしますと、同じ走るという行為においても一人一人違うシューズを履いていますね?


 使っている道具が違うと考えてもらうと分かりやすいです。皆それぞれ異なるやり方で整理し、分析している、この整理の仕方と分析の仕方が異なるんです。


 ですから、この道具に消極的なものを使っている人は人生全般が消極的な後ろ向きで、陰湿で邪気に満ちたものになるのに対して、積極的な道具を使っている人は人生が積極的で、明るく、朗らかで、溌溂として、正気に満ちたものになるんです。


 ですから、当然情報の活用の仕方に関して言っても、消極的な方面から分析を加えれば、結論は消極的なものになりますし、積極的な方面から分析を加えれば積極的な結論が得られます。


 そして、消極的な方面から得られた結論に基づいて戦略、計画、策戦、戦術を立てれば結果は消極的なものになるし、積極的な方面から得られた結論に基づいて戦略、計画、策戦、戦術を立てれば結果は積極的なものになります。


 つまり、成功確率が上がりもすれば、下がりもするということです。そして、人生はその積み重ねによって決まるということです。


 なんとなくお分かり頂けましたでしょうか?


 是非是非ご活用頂けますと幸いです。

 
 
 

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筆者紹介

​ウェルビーイング株式会社代表取締役

池上秀志

経歴

中学 京都府亀岡市立亀岡中学校

都道府県対抗男子駅伝6区区間賞 自己ベスト3km 8分51秒

 

高校 洛南高校

京都府駅伝3年連続区間賞 チームも優勝

全国高校駅伝3年連続出場 19位 11位 18位

 

大学 京都教育大学

京都インカレ10000m優勝

関西インカレ10000m優勝 ハーフマラソン優勝

西日本インカレ 5000m 2位 10000m 2位

京都選手権 10000m優勝

近畿選手権 10000m優勝

谷川真理ハーフマラソン優勝

グアムハーフマラソン優勝

上尾ハーフマラソン一般の部優勝

 

大学卒業後

実業団4社からの誘いを断り、ドイツ人コーチDieter Hogenの下でトレーニングを続ける。所属は1990年にCoach Hogen、イギリス人マネージャーのキム・マクドナルドらで立ち上げたKimbia Athletics。

 

大阪ロードレース優勝

ハイテクハーフマラソン二連覇

ももクロマニアハーフマラソン2位

グアムマラソン優勝

大阪マラソン2位

 

自己ベスト

ハーフマラソン 63分09秒

30km 1時間31分53秒

マラソン 2時間13分41秒

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