生き方や走る理由について考えてみたい方へ
更新日:8月27日
「自分が何故走るのか?それが分かっていなければ絶対に速くならない」
これはオリンピックで二大会連続4位入賞を果たした中山竹通さんのお言葉です。ここで、あなたにお伺いしたいことがあります。あなたはご自身が何故走るのか、それを分かっておられますでしょうか?
深く深く分かっておられますでしょうか?
本日は自分が何故走るのかを考える上で、参考になる話が聴きたいという方の為のブログ記事です。
大前提をお話させて頂きますと、結果を出す一番手っ取り早い方法は長距離走、マラソンにより多くの時間と労力とお金を捧げることです。つまり、自分の人生を捧げることです。
要するに、何故自分はそこに時間と労力とお金を捧げる価値を見出すのかという話です。それを考えるにあたって、参考になる話が聴きたいというのであれば、是非こちらのブログ記事を最後までお読みください。
さて、自分が何故走るのか?それを考える上で参考になる話が聴きたいという方、本日のお話をさせて頂く前に、すでにお届けさせて頂いた「生きて持久に徹せよ」と「ウェルビーイング批判」はもうお読み頂けましたでしょうか?
この二つの記事を読んでいないと今回の話は理解が出来ないので、先ずはこの二つの記事をお読みください。
読まれた方の為に本題に入らせて頂きましょう。
要するにこういうことなのです。自由というものを使いこなせる人と使いこなせない人がこの世にはおり、大半の人は自由というものを使いこなせないのです。ここに大きな問題があります。
人間というのは人間らしい生き方をしようと思えば、人間としての天分を遺憾なく発揮し、その生命を最大限に輝かせようと思えば、他人の為し能わざるところの何かを成し遂げようと思えば、理想や理念や夢や目標や情熱を燃やさなければなりません。
理想や理念や夢を強く掲げ、常に大事に肌身離さずに持ち続け、大切に育て、磨いてゆくからこそ、人間というものは気高く、強く生きることが出来るのです。そして、そういう人間が他者から尊敬され、羨望され、他人が欲しがるものを手に入れていくのです。
もしも、それがなければどうなるか?
食べて、寝て、異性と交わって、子供を育てて、成るだけ他人から嫌われないように生きていく、その程度の欲望しかないのです。
そして、それでなんら悪いことはありません。たいていの人はこの程度の欲望しかありません。
なんとなく、うまいもん食べて、夜になったら寝て、適当な結婚相手を見つけて、子供を育てて、なるべく目立たないように嫌われないように、他人の指示通りに動いて年収500万円くらいの収入でやりくりして、子供になるだけ好きなことをさせて、大学卒業するまで親の務めを果たす、ほとんどの人の欲望というものはこの程度のものです。
それはそれで構いません。決して、それが悪いということはないし、社会学的にはこういった人間を大衆と分類するのです。
ウェルビーイングオンラインスクールの人間編の区分に従えば、大我までは多かれ少なかれ発達しているが、真我は発達していない人間です。
真我が発達するとエリートの分類に突入します。もちろん、真我が僅かでも芽生えるとすぐに人並み外れた人間になるかというとそうではなく、何年もかけて大事に守り、育み、磨き、苦難に堪えて研鑽を続ける必要があります。
そうすると、長年にわたって磨き上げ、自分の人生に自己というものが確立されていく、自己の考え、自己規律能力、そういったものが確立されている人間がエリート層です。
そして、真我が芽生えてはいるけれど、充分に発達しておらず、また自分というものが確立されていない、大衆とエリートの中間層に中流階級と呼ばれる段階が存在します。
中流階級と書くと「中間の平均的な人間」という印象を持たれるかもしれませんが、そうではなく、中流階級、中産階級、インテリと呼ばれる階層は教育や躾を受け、何らかの形で目指すべき方向を持っている人間のことを指します。
逆の言い方をすれば、大衆というものは教育らしい教育、躾らしい躾というものがないということです。
学校においては先生が見張っていないとすぐに勉強や掃除をサボるような人間、部活においては監督や先輩が見張っていないとすぐに練習をサボるような人間、会社においては中間管理職や監視カメラを設置しておかないとすぐにごまかしたり、サボるような人間、趣味においては時給3000円で働く自称専門家をつけておかないとトレーニングや英語学習を続けられないような人間です。
私のオンラインスクールの受講生様に大衆レベルはほぼおりません。そして、これがわが社がこれまでのところ大企業ではなく、おそらく今後も決して大企業にはならない所以です。
中流階級というのは日本のような素晴らしき国でもせいぜい2割程度です。エリートは1分程度です。
さて、ここで考えて頂きたいのはこの中流階級です。実は最も厄介なのはこの中流階級なのです。
それは何故か?
大衆というのは悩みらしき悩みをあまり持ちません。食べて、寝て、異性と交わって、子供と戯れて、会社をクビにならなければそれで良いのです。
もちろん、その中にそれなりの苦労や悩みというものはあるでしょうけれども、生き方そのものは哺乳類やチンパンジーやゴリラとさほど変わらないので、人間らしい悩みというのは良くも悪くも持たないのです。
ちなみに、大衆を完全に極めたら多分ビッグダディになりますね。あの方の話を聞いていたら、本当に行動原理というか思考というのが分かりやすく、ちゃんと哺乳類や霊長類の群れのボスっていう感じです。あれはあれで整合性が取れていて立派だと思います。良くも悪くも人間らしい悩みというものもなさそうです。
ところが、中流階級は理性というものが発達しております。この理性が余計な悩みや考えを生み出す訳です。
一角優れた人間になりたいが、自分は今のところそうではないというような現実に悶々と悩んだり、自分の理想の生き方というものを持ちたいが、その理想が持てないことに悶々と悩んだり、あるいは何を理想や理念や夢や目標として生きるべきかということに悶々と悩んだり、あるいは老後について悶々と悩んだりするようなのもこの中流階級です。
大抵は宗教やジェンダー問題などの政治思想やその他の政治的思想、活動に積極的に参加するのもこの中流階級です。大衆も宗教を持ったりはしますが、その中でも「そんな固い事ばっかり言うなよ」と言いながら戒律を平気で破るのが大衆、それを快く思わないのが中流階級、会社で言えば、「そんな固いこと言うなよ」とか「そんなまじめ腐って働いて何になるんだ」とか「ちょっとくらい良いじゃないか」と言いながら、隙あらばサボろうとするのが大衆、それを見て快く思わないのが中流階級です。
それが宗教的なものであれ、労働者としてのものであれ、心の中に何らかの理想や理念や規範や戒律がある訳です。
一方でエリート層はと言いますと、だいたいはもう自分の生き方や思想、理念、理想、夢というものがすでに確立され、心の中に炎と燃えておりますから、今さら外野の意見に心が揺れることなどないのです。
また、自分なりの考えをまとめたり、きちんと会社の経営方針を定めたり、部活の運営方針を定めたり、教義を作って宗教家になるようのもエリート層です。
そして、統計的に言えば、わが社のお客様は大衆でもなければ、エリートと中流階級の人々が大半です。大衆のように動物的な生き方ではなく、人間らしい悩みや考えを持っている、しかし、だからこそ時として浮草のように揺れ動いてしまうのです。
ある意味においては大衆は一貫性があります。
だって、うまいもん食って、セックスして、子供をつつがなく育てて、気の合う友達とだけつるんで、会社はクビにならない程度に最低限働くくらいの欲望しか一生持たないですもん。それ以外に興味がないので、生き方が一貫しているのです。分かりやすいんです。
中流階級はそれ以上の何かを求めながらも、なんとなく絶対にこれで良いというものが持てないのです。ここからが自由というもののテーマになるのです。
実は人間らしい悩みを抱えて、生き方や人生が定まらない人は自由を捨てるというのも一つの有効な選択なのです。Aが良いか、Bが良いか、Cが良いか、そんなことで悩み続けていたら、一生終わりがありません。
だって、人生は対照実験が出来ませんもん。
A社に就職して退職するまでを100回繰り返し、B社に就職して退職するまでを100回繰り返し、C社に就職し退職するまでを100回繰り返し、それぞれの結果を比較してみるという手法が取れるのであれば、この問題は数学、あるいは科学の力によってたちまちのうちに解決せらるることになります。
しかしながら、我々の人生はたった一回きり、やり直しのきかない人生に科学の力は無力なのです。
しかし、昔の人たちはだいたいこういう風に生きていけば幸せになれるということを公式化しておいてくれているのです。それが教育であり、躾なのです。
しかし、日本は明治維新と大東亜戦争の敗戦という二回のきっかけで、この教育手法、躾をダウングレードさせています。
ですから、現代の学校教育やマスメディアから離れて、ある程度の見直しは必要になります。全て昔の方が良かったとは思っていませんが、もう一度アップグレードする努力は必要になるでしょう。
それを私がやったのがウェルビーイングオンラインスクールの人間編だと思っていただけると良いです。
皆さま方にはあまり関係のない話ですが、移民問題の真の問題はここにあります。ここまでは大衆、中流階級、エリートの3つの分類しか触れませんでしたが、大衆の下に不良という階級があります。
移民問題とは外国人の流入が問題なのではありません。不良が多数流入することが真の問題なのです。
逆に、日本国中の不良を集めて、まとめて中国に送るなり、トルコに送るなり、ベトナムに送るなりすれば、一種のテロ行為に充分なり得るでしょう。
実際に、欧州ではテロ並みの治安の乱れが起きていますし、日本でも川口市が相当にひどいと聞きます。移民問題とは誰かが手ぐすねを引いて、大量に不良をある地域に送り込むことによる問題です。
そして、このことを理解するには日本は如何に教育や躾の水準が高く、不良が少なく、大衆と中流階級の割合が多く、また大衆も諸外国に比して中流階級に近いかを知らねばなりません。
嘘だと思うのであれば、数年ケニアで暮らしてみれば良いのです。ただし、外国人用のホテルに泊まったらダメですよ。現地の人々と同じように暮らし、商取引をしてみるのです。
そうすれば、日本人の程度が如何に高いかがお分かり頂けるでしょう。人間皆平等などというのは、真にくだらないたわごとです。
話を戻しましょう。躾というのは一種の「こうでなければならない」という押し付けであり、社会規範というのもまた「こうでなければならない」という押し付けであり、不自由なのです。自由がないのです。
しかし、自由がないからこそ、つまり、自分にはこれ以外の生き方はないと思い定めるからこそ「生きて持久に徹せよ」の中で描いたような壮烈無比の生き方が可能になるのです。
あれはほとんど史実に基づいて描いております。作品の中ではペリリュー島が舞台となりましたが、あれより少し南にいったところにアンガウルという島があり、そこの守備隊の一員であった船坂弘という方(戦中の階級は軍曹)が著書の中に次のように書いておられます。
「当時の青年は、国家と同胞と家族に生き、歴史と伝統を守った。常に民族意識に燃え、勇気と正義を愛し、青年にして崇高な孝行、忠節、礼儀の大義に生きるという大きな目的があったと思う。水際に敵を撃つことは、目前に迫る国家の敵を撃つことであった。銃後の国民が青年たちに託した「兵隊さん、前線をたのみます」という言葉に、身をもって奮い立ち、一命を喜んで投げうったのだ」
もうお分かり頂いている方も多いと思いますが、ここで言う当時の青年とは中流階級の青年です。文字通り皆が皆このように生きた訳ではないでしょう。
そして私が思うに、当時は中流階級が今よりも随分多かったのではないかと思います。あるいは大衆の程度が今よりも高かったと言っても良いでしょう。これはどちらで表現しても良いです。エリート、中流階級、大衆、不良というのは便宜上の区分であり、実際にはもっと連続的に繋がっているはずです。ですから、当時は中流階級が多かったと言っても良いですし、大衆の程度が今よりも高かったと言っても良いです。
話を元に戻しますと、大日本帝国の時代というのはある意味においては社会が抑圧を加え、一種の統制を加うることによって心の中に理想と理念を燃やし、力強く生命の炎を燃やし尽くした人の数が多かったということです。
だから、素潜り漁師の糸満兵は水に潜って米軍の上陸舟艇を擱座させ、千明大隊の歩兵たちはあんパンを抱えて戦車の下に潜り込んで戦車を擱座炎上させ、のろまの亀さんと呼ばれた小寺一等兵は戦友たちを守るために、敵戦車をわが身もろとも爆破したのです。
ここで誤解をして頂きたくないのは、私はこの時代に再び戻るべきだと主張している訳ではないということです。
そうではなくて、ここで一つ認識していただきたいのは一種の強制を加うることによって人間というものは驚くほどに強くなれるということです。
そうすれば、一つの答えとしては、「男とは心身ともに強くあるべきであり、マラソンでサブ3出来ないやつは男ではない」という価値観を自分自身に強制してしまうのも実は一つの手なのです。
そして、実はここに自由の境地が開けていることにお気づきでしょうか?
何故ならば、この規範は自分で自由に選んでいるからです。誰か他者から強制されたものではなく、自分で自分に強制しているのです。自分で自由に選んでいるから実は自由なのです。
しかしながら、自分にある規範を強制することで、明らかに大衆とは異なる生き方をすることが出来るのです。大衆の生き方には規律も規範も理念も理想もありません。
その時々で自分の欲望に従い、うまいもん食って、魅力的な異性と交わって(そして、魅力の基準もだいたい外見のみ)、子供を育て、なるべく楽をしてなるべく多くのお金をもらいたい、そんな頭しかありません。なので、一言で言えば節操がないのです。
そりゃそうです。その時々で何が良いかは変わりますもん。今日はカレー、明日はうどん、その次の日はパスタ、今日はA子ちゃん、明日はB子ちゃん、2週間後にはC子ちゃん、今年はA社、来年はB社、再来年はC社、その時々で一番良い条件を提示してくれるところ、その時の気分に応じた選択をするので、一貫性というものがありません。
わが身もろとも爆破してでもこれを貫くというものがないのです。
でも、やっぱり現代社会は自由なんです。今から90年前の日本人には自由らしき自由はありませんでした。男児に生まれた以上、大抵は遅かれ早かれ戦地に送られ、戦争の勝利の為に生きるしかなかったのです。
ちなみに、私の祖父に子供の頃の夢を聞いたら「あの時代は陸海の違いがあるだけで、男の子の夢は皆大将になるしかなかった」とのことでした。
結婚も良き家柄ほど父か祖父の決めた相手と結婚し、職業は父と祖父の職を継ぐというのがあの時代です。
こんな自由のない時代に生きるよりも、今の自由に生きられる時代に生まれたことを人生最大の感謝と私はしています。
でも、じゃあ規律や規範や基準やこうあるべきという理念や理想がなくても良いのかというと、やっぱりそれは人間として生まれながらもったいなく、恥ずかしく、また寂しくもあります。
という訳で、「日本男子(やまとおのこ)と生まれなば、心身ともに強く、頭も良くあらねばならない。サブ3ランナーに非ずんば、日本男子(やまとおのこ)に非ず」と思って生きてみてはいかがでしょうか?
繰り返しになりますが、何を選択するかはあなたの自由です。ただ、ここでは自由と規範というものを組み合わせてみて頂きたいということです。
ちなみにですが、私はずっとマラソン2時間10分を切れないのは人間じゃないと思って生きてきました。人間じゃなかったら何なのかというと、由良育英高校を三度の日本一に導かれた故横山隆義先生に言わせれば「芋」だということになるでしょう。私は早く人間になりたいと思いながら、もう16年が経ちました。
16年間走り続けてこられたのは私の中に規範があったからと言って良いでしょう。
ちなみに、横山先生に言わせれば1500mで4分もかかる奴は「芋」だそうです。この前わが社副社長の深澤哲也が1500mで4分5秒を記録し、自己記録を更新しましたが、まだ「芋」ですね。
という訳で、このAIが台頭している最先端の社会において、わが社は芋2本で経営しております。
おあとがよろしいようで。
ウェルビーイング株式会社代表取締役
池上秀志
追伸
補足で解説させて頂きますと、自分の規範を他人に押し付けるか否かはまた別の話になります。
確かに、規範というものは皆で守るから規範になると言われればその通りです。
例えば、「他人の物を盗んではいけない」とか「強姦してはいけない」というような社会規範は誰もが守るべきです。
しかしながら、「男なんだからマラソンで2時間10分を切るべきだ」とか「男なんだから年収1億円くらいはあるべきだ」とか、あるいはもっとくだらないことで「男なんだから毎朝4時半に起きてトレーニングに励むべきだ」というような規範を他人に押し付けるべきではないでしょう。
どのような規範を持つかはあくまでも自由なのです。
そして、他人に期待するよりも、他人に押し付けるよりもはるかに厳しい規範を自分自身に押し付けられ続けられる人がエリートなのです。厳しい規範を一日だけ、あるいは一か月だけ持った人がエリートなのではないです。10年、20年、30年と自分自身に規範を押し付けられ続けられる人がエリートなのです。
ただし、その規範の中身は変わっても良いでしょう。ある時は受験勉強、ある時はマラソン、ある時は仕事、ある時は国家の大命を拝受する、中身が変わることは自然なことであると思います。
追追伸
私の母校の洛南高校には頭の良い秀才共が屯(たむろ)しておりましたが、そのうちの一人が私にこう言いました。
「この世に大学は二つしかない。東大理三とそれ以外である」と。
彼は東大理三に受かりました。本物の秀才とはこういうもんかと思ったものです。




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