実業団4社からの誘いを断り外国人コーチについた男の話

 こんにちは、Kimbia Athletics所属のランナーで、ウェルビーイング株式会社代表の池上秀志です。今回、私がお話しするのは、私の進路の話です。前回の記事「初めて月間1000kmの練習をして学んだこと」をご覧いただいてからの方が、話の流れが分かりやすいので、まだご覧になっていない方は、まずそちらをご覧ください。

 さて、かいつまんで話をすると、私は大学に入学した時から将来マラソンをすると決めていました。何も学校の先生になりたくて、京都教育大学に入ったのではありません。陸上でとってれる実業団も大学もなくて、親が大学くらい行ってほしいというから大学に行ったのであります。それも学費が余分にかかると親にあいすまないと思ったので、国立大学を選びました。

 それでも、とにかくマラソンをやりたくて大学に入ったので(といっても大学は陸上のためでなく、勉強のために通ってました)、とにかく5000mのタイムを伸ばすことと、総走行距離を伸ばすことが最優先事項でした。5000mのタイムを伸ばすことと、総走行距離を

伸ばすことは相反することじゃないかと色々な人から言われました。実際のところ、私もマラソンをやらないのであれば、そこまで走らなかったと思います。でも、私はマラソンのレース当日に5000mをどれだけ速く走れるかということを意識していました。たとえ、5000mの自己ベストが13分半でも、マラソン練習をして、5000mが14分ちょうどになるのであれば、実際には1キロ3分ペースで押していけば、5キロごとの余裕度は1分です。そんなわけで兎にも角にもやってみたものの、結果的には月間1000kmのトレーニングとともに5000mでも自己ベストを更新しました。ついでにハーフマラソンも63分09秒で走り、こちらも大学入学時の目標を達成しました。

実はこれは高校三年生の時にすでに公言していたことでもあります。当時佐川急便に山本亮という選手がいました。山本さんとは何度か都道府県対抗男子駅伝で同じチームで走らせて頂き、私が高校三年生の時も私が京都チームの5区、山本さんがアンカーでした。その駅伝の後に山本さんから「池ちゃんの大学4年間の目標は?」と聞かれて、ハーフマラソンを63分18秒で走ることと答えていました。そのあと、山本さんはびわ湖毎日マラソンでリオデジャネイロ五輪の代表切符を勝ち取られ、ますますマラソンがやりたいと思ったものです。ちなみにハーフマラソンを63分18秒と答えた理由は、大学時代に半分の距離を1キロ3分ペースで走っておけば、死ぬまでにそのままのペースでもう半分走れるだろうという魂胆です。これはまだ残念ながら成し遂げていません。

さて、話を元に戻すと、月間1000km(実際には最高で1200km)の練習をこなして、5000mとハーフマラソンで自己ベストを更新したまでは、良かったもののそのあとまるで陸上競技が分からなくなりました。一言で言えば、練習とレースの結果が一致しなくなったんです。インターバルのタイムは相変わらず上がっているのに、試合ではタイムが良くならない。そんなことで悩んでいました。同時に進路でも悩むようになりました。当時は、藤原新さんや川内優輝さんといった異色のランナーが台頭した頃であり、私自身も大学の陸上競技部を退部し、アラタプロジェクトというチームに所属していました。実業団からもお声掛けいただいていましたが、アラタプロジェクトからもお声掛け頂き、ミキハウスさんからスポンサーのお話を頂いているとのことでした。親からは実業団に入れとしきりに言われておりました。それはまあ、今となっては余計に実感がありますが、実業団チームを持てる会社というのは、どこもかしこも大会社です。年間で1億円は捨てても大丈夫という会社じゃないと実業団チームは持てません。実業団の中にも、契約形態は様々でほとんど出社しない会社から、ちょこっと出社して雑務をこなすチームから、残業までしっかりあって、陸上同好会のような待遇で頑張っているチームもあります。小さな違いはあっても、基本的にはどこも大企業です。親からすれば安心でしょう。


当時の私(21歳)


それはまあでも親の理屈であって、子供の方は納得しません。私がその時求めていたのは、速くなることだけですから。確かに綺麗事だけでは飯は食えないので、その辺りまで含めて陸上競技だと今日までずっと思っているのですが、そうはいっても一番必要だったのはコーチでした。

 そんな中で、私は大学3回生の夏休みを利用して、ケニアに合宿に行きました。夏休みといっても、京都教育大学では3回生の夏休みは教育実習に行かないといけません。本当はこれに行かないと卒業できないのであります。基本的には京都教育大学では、免許は二つ取得しないと卒業できません。そのためには教育実習は中高と小学校に教育実習に行く必要があります。3回生の夏休みと4回生と本来ならば、二回教育実習に行かないと卒業できないんです。ところが、私は卒業要件を細かくみて行くと教育実習に行かなくても免許を二種類とって、卒業する方法がありました。そんなわけで今でも中学社会と高校の地歴公民の免許を今でも持っております。大学もきちんと四年で卒業しました。

そんなことはさておき、3回生の夏休みにケニアに行って、今のコーチのディーター・ホーゲンに出会うことになります。日本では他の学校や実業団が合同で練習することはあまりありませんし、あったとしてもかなり正式な形で、一緒に練習します。走り始めて、走り終わったら、人数が増えてるなんてことはないわけですが、ケニアではそんなことは日常茶飯事です。しょっちゅう人が入れ替わります。


当時はまだ日本人はほとんどケニアにいませんでした。


そんな中で、私もたまたまコーチホーゲンの選手と一緒に30km走をすることがあったのです。当時は、もちろんコーチホーゲンのことは知りません。初めはジャーナリストかと思いました。当時既に62歳でしたが、練習中のコーチは非常に若く見えて40前後かと思っておりました。年齢を聞くと62歳とのことで非常に驚きました。そんなこともあって、コーチから栄養について教わるものはとても説得力があります。管理栄養士や医者の人でも自分は不摂生して、老けている人もいますが、コーチは人に栄養を教えて、それを自分が忠実に実践し、見た目も若く、体力もあるのだから、それは言うこと聞きます。私自身も見た目がこんなんだから、「食事を変えるのが一番のアンチエイジング」と言っても話を聞いてもらえますが、これで26歳で見た目がおっさんなら誰も話を聞いてくれません。


右隣がラーニー・ルットさん、その右がフランシス・ボエンさん、私の後ろの長身の選手がスレイマン・シモトワさん、皆んなコーチホーゲンの選手、左の白人の選手はエストニアのローマン・フォスティさん



さて、その30km走の後で、コーチホーゲンが私に声をかけてくれました。「良い走りをしてるね」と声をかけてくれたのであります。その後で、色々とコーチは私に話をしてくれました。過去に指導した選手の話、栄養の話、そして、私に「2時間6分は君にとって充分な数字ではない」と言ってくれました。細かい話はここに書ききれませんが、それまで色々な指導者の話を聞いてきた中で、最も腑に落ちました。なぜ、腑に落ちたのかと言うと、一言で言えば、そこに全て信念があったからです。栄養の話にも通じますが、コーチというのは往々にして、実体験に基づいていなかったり、自分で信じてもいないことをベラベラと喋るものです。ところがコーチホーゲンはスポンサーが相手でも、国家が相手でも自分の信じたことは貫く訳です。そのため私もだいぶん苦労しましたが、これならこっちも人生をかけてみようと思います。甘い汁を吸おうと思ってきたのではなく、こっちは真理を探究するつもりで来ていますから、それは苦労してもそちらの方が良いです。

コーチホーゲンの教え子で、私たちにもアドバイスをくれるウタ・ピッピヒさんが1990年のボストンマラソンで優勝した時の話です。1990年と言えば、歴史に通ずる人は年号を聞いただけで、ぱっと思い浮かぶと思いますが、東西ドイツの統一の年であります。コーチホーゲンとウタさんは東側の人間でした。当時、東側の人間は西側のレースに出ることは非常に困難でした。実際に西側の競技会に行ってそのまま西側に亡命したスポーツ選手もいます。国家としては規制するのは当然だったのでしょう。

この年、ウタさんは春のマラソンに出場するにあたり、国からの出国許可がなかなかおりずに、どこのマラソンに出るかもわからないまま、もっと言えばマラソンに出られるかどうかもわからないままにマラソン練習を始めました。そんな中、最後までボストンマラソンに出られるように国に掛け合ったのがコーチホーゲンです。ボストンマラソンの出場許可が下りたのは、レースの十日前でした。一週間前の調整の10キロ走でウタさんは嬉しくて31分02秒で走ったそうです。

ウタさんと私


オンボロの車にポケットに500ドルだけ持って、ウタさんと西側のトレーニング施設に移ったりと大変な中で、国家に自分の意見を通し、ボストンマラソンで優勝させた人ですから、そりゃスポンサー相手に自分の考えを曲げる訳がありません。そのせいで私もだいぶん苦労しておりますが、人間そこまで強い信念の人が自分に期待してくれたら、期待された方も命をかけてでもと思うものです。

さて、ケニアで出会った私とコーチホーゲンですが、私は学校も始まるので、日本に帰国しました。帰国後もメールでやり取りを続けました。正直な話、コーチホーゲンの下で陸上をやって飯が食えるのかどうか、そんなことは知りもしませんでした。それでもとにかくコーチホーゲンに決めたのであります。その時の私は「我樹下石上を家とすも可なり」という気持ちでした。それはまあ女性から惚れられるのも悪い気はしませんが、男が男に惚れる時の気持ちほど尊いものはありません。初めから打算で選ばずに「樹下石上を家とすも可なり」と思ってやってきた訳ですから、それで金を少しでも稼いできたことに感謝するばかりです。

私自身も私が競技人生の中で学んだことをお伝えして、お金を稼がせていただいていますが、これもコーチホーゲンのおかげです。質の高い学びと実体験の両方がなければ人様にものを教えることは出来ません。

私がコーチホーゲンを選んだ理由の大きなものの一つはコーチホーゲンがずば抜けて知的だということでもあります。陸上競技の指導をするのに学問がないとできないかと言えば、そんなことは一切ありません。知らないよりは知っていた方が良いのは間違いありませんが、必要ではないんです。それよりも経験や感性の方が重要です。ところが、私はそれだけでは納得できない人間です。「良いから、これをやっとけ」では納得できない人間です。その代わり「こうこうこうで、これをやればこうなってこうなるから、やってみろ」と言われれば、飽きずにいつまでもやっていられます。コーチホーゲンは一回一回の練習の目的などの説明が非常に理論的で納得できるものであり、栄養や睡眠に関しても非常に通じており、アメリカの栄養の月刊誌に記事を書くほどの人です。それで、私もついていくことにしました。

当時私は英語もまともに話せず、ドイツ語は全く話せませんでした。コーチも日本人を指導するのは初めてでした。もちろん、日本語は話せません。そんな状況で、よくついて行ったなと今から思えば思わなくもないのですが、信じて事に当たれば、なんとか道は開けてくるものです。

実を言えば、今の会社を立ち上げたのもコーチホーゲンの存在が大きかったです。もう去年の時点で、アミノサウルスから今年からは月5万円でと言われていましたが、月5万円もらってもどうしようもないので、それなら要らないと断った訳ですが、そうは言っても食べていかないといけません。そこで、考えたのが、インターネットさえあれば世界中どこにいてもお金を稼げるビジネスモデルです。これなら、合宿中でもお金が稼げます。これも上手くいくだろうかいかないだろうかと考えて起業した訳ではありません。心の中にぽっと「コーチホーゲンと競技を続けるならこれだろうな」と思った訳です。

今はコロナで多くの人が生き方を変えている時代です。でも時代が変わっても一番大切なのは自分の信念ではないでしょうか?中村清先生は戦後直後、自分が食うにも困る中で、選手の指導を始めました。広島カープは原爆が落とされ、焼け野原となった最中に出来ました。これを読んでくださった方が、一人でも自分の信念の実現をされることを心より願ってここにペンを置きます。

追伸

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