1.自我とは何か
大学時代、哲学・倫理学ゼミに所属していた私は自我とは何かということについて考察していたことがあります。当時は自我の考察がマラソンと関係あるとは思いもしませんでしたが最近になって自我というものを理解することが競技にとっても重要であるということに気付きました。皆さんはそもそも自分とは何だろう?何をもって自分というのだろう?と考えたことがあるでしょうか?「自我とは何か」という問いは「何をもって自分は自分といえるのだろうか?5歳の時の自分と現在の自分が同じ人物だと言える根拠はどこにあるのだろうか?」という問いのことだと思っていただいて構いません。
この問いに対する答えは「私はマラソンランナーである」、「私は弁護士である」、「私は高校の先生である」というような答えではあり得ません。このことは次の例を考えてもらえればわかります。例えば、結婚を目前に控えた花嫁に「彼のことどうして愛してるの?」と聞いたとします。この時、花嫁が「高身長で高学歴で高収入だから」と答えたらどう思いますか?直感的に「それは愛ではない」といいたくなりませんか?結婚する理由には充分なりえますが、愛している理由にはなりがたいように思われます。
何故愛している理由になりえないかという問いに対しては次の二つが考えられるでしょう。一つ目は彼が高身長、高収入、高学歴のどれかの条件を満たしていなければもはや愛さないことを意味するから、二つ目は高身長、高学歴、高収入なら他の誰かでもよかったことになるからです。
このように「身長が高い」、「東京大学出身だ」、「外務省で働いている」、「日本人だ」、「優しい」などなどのその人に帰属する性質のことを属性といいます。自我が属性ではないことは確かです。私は日本人ですが、日本人は私ではありません。私はマラソンランナーですが、別の時には家庭教師をしたり、オラという宿泊施設で働いたりしていました。ある人から見れば私は優しいですが、他の誰かから見れば私は冷たくて自分勝手で自己中心的な人間です。それがどのようなものであれ、属性は自我とはなりえません。
では「マラソンランナーである」、「身長167㎝である」、「京都府亀岡市で生まれた」、「洛南高校、京都教育大学の出身である」、「漫画は『ゴルゴ13』」が好きである」などの全ての属性の集合体が私でしょうか?それも違います。何故なら、現在私はドイツ人ではありませんし、過去にもドイツ人であったこともありませんが、例え国籍がドイツ人になっても私は私だからです。マイケル・ジャクソンのように肌の色を変えてもやはり私は私です。大学時代のゼミの先生と話していた時、「属性が自我ではないとしても、属性をすべて取り除いてしまうと超越論的統覚のようなものしか残らない」と言われたことがあります。実は私は長距離走において、適正ペースを掴むことが出来るのはこの超越論的統覚のお陰だと思っています。先ずは超越論的統覚について解説しましょう。
2.超越論的統覚とは何か
今私は長野県の富士見高原でこの記事を書いています。周りを見渡してもここが長野県の富士見高原であることを示すものは何もありませんが、私はここが長野県の富士見高原であることを知っています。また3日前には大阪にいて、それから東京に行って、埼玉県の久喜市に行って、長野県の富士見高原に戻ってきたことも知っています。決して埼玉から大阪、大阪から長野、長野から東京ではありません。しかしながら、今周りを見渡してみると、2日前に東京にいたことも昨日の午前中埼玉県の久喜市にいたことを示すものも何もありません。ではなぜ私は時間的にも空間的にも異なる経験を一つの話の筋で語ることが出来るのでしょうか?
カントはこの時間的、空間的に異なる出来事に統一を与えるような主体のことを超越論的統覚と呼びました。我々はこの超越論的統覚のお陰で朝起きてから歯を磨いて、家を出たという風に時間の流れを語ることが出来ます。また自分の家ならわざわざ後ろを振り向かなくても何が後ろにあるか言えるでしょう。それはさっき見たものと今見ているものとの間に統一を与えることが出来るからです。
私は長距離選手が適正ペースを掴めるのもこの超越論的統覚のお陰だと先述しました。運動生理学の分野は戦後ずっと発展し続けています。近年では理論が発展しているというよりも計測機器の発展が目覚ましく、血中乳酸濃度や心拍数が簡単に安価に計測できるようになりました。しかしながら、どのような計測機器を用いても研ぎ澄まされた感覚を持った人間の体以上に正確に適正ペースを教えてくれることは無いでしょう。何故なら、超越論的統覚のようにいくつもの異なる現象にほぼ時間差無しで統一を与えてくれるものはないからです。人間の体というものは物凄く複雑に動いています。血中乳酸濃度が同じでも、あるときはそのペースを維持できず、ある時はそのまま最後まで走ってしまうでしょう。何故なら血中乳酸濃度はあくまでも一つの要素にすぎず他にも筋損傷、心拍数、中枢神経の働きなど様々な要素があるからです。
しかしながら、超越論的統覚はそれらを統一してある一つの感覚を我々に与えてくれます。それは言葉では表すことのできない感覚です。言葉で表すことが出来ないというよりは言葉で表現する前の感覚です。「きつい」という感覚は「きつい」という言葉にした瞬間、人間がその感覚に対して「きつい」という判断を下したことになります。更に「きつくてこのままペースを維持することはできないから、ペースを落とそう」と思えば、判断に加えて推論を働かせたことになります。
近年は「超越論的統覚によって与えられる端的なある感じ」という不確かで言葉で伝えることのできないものに注意を向ける代わりに、物理的速度(1㎞何秒ペースか)、心拍数、血中乳酸濃度のようなものが正統な位置を占めるようになっています。しかしながら、適正ペースを掴むことは「超越論的統覚によって与えられる端的なある感じ」に注意を向けることから始まります。このような言葉にすることのできないものを他人に伝えることは難しく、曖昧で時代遅れに感じられます。しかしながら、これをものにしない限り、長く安定して結果を残すことは不可能でしょう。これは私自身が痛感していることであり、失敗するたびに学んでいくことでもあります。
3.再び自我とは何か
ではこのような超越論的統覚が自我でしょうか?それも違います。結婚式を目前に控えた花嫁の例に戻ればそれは明らかでしょう。その人から属性を全部取り去った後の超越論的統覚のみを愛することが出来るでしょうか?もちろん不可能です。愛するどころかそれが誰なのか認識することすらできないでしょう。
では自我とは何でしょうか?私の答えは二つあります。それは記憶と意識です。この答えにたどり着いたのは知り合いの二歳児の息子さんを見ていた時です。不良であろうと、出来損ないであろうと、世間知らずであろうと、いわゆるまっとうな道を歩まなかったとしても、たいていの親にとって子供は可愛いものです。それは1歳、2歳、3歳、4歳とその子を育ててきた、その子の成長をずっと見守ってきた記憶の中にあるのではないかと思いいたりました。逆に言えば、少し残酷な話ですが、記憶喪失や認知症になった人はたとえそれが自分の息子でも素直に愛することは難しいのではないでしょうか?逆にたとえ生物学上は自分の子供ではなくても、1歳の頃から自分の子供として育ててきた子供は生物学上の自分の子供と何ら変わりがないのではないでしょうか?
二つ目の意識に関して言えば、「端的に私であるという感じ」と言い換えて良いでしょう。私がこれからドイツ人になろうと、肌の色を黒に変えようと、マラソンをやめて喫茶店で働こうと私は私であるという意識はずっと残ります。記憶喪失になって自分の名前がわからなくなっても「私は私であるという端的な感じ」は残ります。「私はマラソンランナーである」とか「私は日本人である」というのはこの「私は私であるという端的な感じ」を土台としてその上に自分で自分を規定していると言ってよいでしょう。
以上のように述べてみると記憶と意識という二つの要素を上げましたが、意識の方がより自我といえそうな気がします。というのも記憶には記憶違いもあれば忘れることもしょっちゅうありますし、寧ろ重要ではないことは全部忘れているからです。「私が私であるという端的な感じ」、そんなぼんやりとした不確かなものが本当に私なのかと思うかもしれませんが、肉体的に言っても、精神的に言っても「私が私であるという端的な感じ」以上に確かなものなど私の中にありません。
もし私が「明日の朝起きたらとびきりのイケメンになってないかな」と言えば、皆さん私のことを馬鹿だと思われるでしょう。しかし、一晩で6000億個の細胞が生まれ変わり、5日ごとにお腹は新しくなり、1か月ごとに肌は新しくなり、骨格筋は3か月ごとに生まれ変わることを考えれば、毎朝鏡を見る度に同じ人間が写っている方が不思議なことなのです。一年間で見れば実に98%の細胞が生まれ変わります。
精神的に言っても、自分を規定しているものは実は意識だということに気づくでしょう。学校の先生はいつ学校の先生になったのでしょうか?夫はいつ夫になったのでしょうか?生物学上の父親ではないのにいつの間に父親になったのでしょうか?すべて自分で自分自身をそのように規定した瞬間からです。勿論その意識の生成を手助けしてくれるものはあります。教員免許状や婚姻届けがそうです。しかし、教員免許状や婚姻届けがあったとしても自分で自分をそのように規定することがなければ、学校に行くこともなければ、婚姻届けに判を押しても家に帰ることは無いでしょう。逆に生物学的に親子でなくても、自分自身をこの子の父親として規定した瞬間から父親として振舞うようになります。
4.自我とマラソン
さて、ようやく本題に入ることが出来ます。ここで肉体的観点と精神的観点の二つの観点から自我とマラソンについて述べたいと思います。
先ずは肉体的観点から見た自我とマラソンです。人間には約60兆個の細胞があり、先述したように一日6000億個の細胞が生まれ変わっています。これら全細胞はたった一つの目的に向かって動いています。それは正常状態を維持するということです。何が正常状態かは意識の深層部分で規定されます。有意識のレベルであなたが望もうが望むまいがもし慢性的なランニング障害を抱えているならそれはあなたの意識が決めたことです。長期間故障で苦しんでいる人にこのようなことを言うのは酷なことでしょう。私が長い間故障に悩んできたのでそれは分かるつもりです。
先ほど骨格筋は3か月で生まれ変わると書きましたが、私の長母指屈筋炎は2年ほどその場所に居座り続けました。私にとってそれが異常なことでも細胞レベルで見ればそれは正常なのです。こういった低度で慢性的な炎症はDNAの酸化損傷が原因です。細胞は生まれ変わるのですが、異常な細胞が異常な細胞に生まれ変わるのです。しかし、もう一度言いますが、これは私にとっては異常なのですが、細胞にとっては正常なのです。こういった酸化損傷による低度で慢性的な炎症が起きている箇所では局所貧血が起きています。通常の細胞ではミトコンドリアが活発に機能し多くの酸素を用いた有気的代謝によってエネルギーを生み出しています。しかしながら、局所貧血が起きている箇所では血液による酸素の供給がありません。この異常細胞の特徴は酸素を用いない無気的代謝によってエネルギーを生み出せるということです。つまり、生存戦略として次も異常な細胞を生み出した方が良いのです。
この炎症を伴う異常な細胞の生まれ変わりを正常な細胞の生まれ変わりに戻すのは意識の深層、無意識の部分で行われることです。ここでもやはり何らかの形で我々の体は意識の力によって規定されるのです。
勘の良い方はお気づきだと思いますが、この意識の力はトレーニング効果にも影響を与えます。どんなに運動生理学的に理に適った練習をしていてもあなたが腹の底で「こんな練習やっても無駄だ」とか「どうせ自分には才能がないんだ」と思っていればあなたが思うようにあなたの体の細胞も動くでしょう。
精神的にもそうです。あなたがスタートラインに立った時に他のビッグネームを見て怖気づいたり、自信を失ってしまうのはそういった選手達が過去に良い成績を残したからではありません。あなたの意識がそのように規定したのです。
最後に誤解のないように書いておきますが、あなたの意識を形成するのは、あなたの日々の意識です。その瞬間瞬間の意識があなたの意識全体を形成します。従って、今この瞬間に意識の力で故障を治すこともできなければ、レースの3日前になって急に強い自信を作ることもできません。もう一度結婚前の花嫁の例に戻ってみてください。出会って五分後に結婚することもなければ、結婚の直前になって急に相手のことを嫌いになることも極端な例と言わざるをえないでしょう。自分自身を規定するのは自分の意識ですが、その意識そのものは、通常はゆっくりと変わっていきます。
様々な手法を用いて、通常よりも深いレベルでより早く意識を変えることはできますが、これはまたおいおいブログの中で書いていきます。
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