遊撃戦を展開せよ
更新日:2022年8月15日
1992年ミャンマーカレン州
「おい、ニシ、タカベ、お前ら昨日の夜何か見なかったか?」
モピュ大尉がニヤニヤしながら聴いてきた。
昨日何か見なかったかとはどういうことだろう?
まさか幽霊でもあるまいし
「いえ、なにも見ませんでしたが、何かいたんですか?」
「なんだお前ら知らんのか。ここは日本軍が集団自決したところだぞ」
日本軍が!?あーそうだったのか。我々の祖国の英霊が眠るところだったのか。
あの大東亜戦争で祖国の英霊達がアジアを白人達の占領から解放する為に、ビルマ族と手を取り、イギリス相手に命を懸けて闘った。
大東亜戦争では圧倒的に物資に恵まれた英軍に敗北を喫したが、日本軍が鍛え上げたビルマ軍は見事に英軍をなぎ倒し、主権を取り戻した。大東亜戦争終結後も多くの日本人がミャンマーに残り、英軍と闘い独立に大きく貢献した。
ヨーロッパからの搾取や暴力から自由と自治を取り戻す為の闘いだった。
ところが、そうやって独立を果たしたビルマ軍が少数民族のカレン族を武力で支配し、多くのカレン人が拷問され、レイプされ続けた挙げ句殺された。
怒りに燃えるカレン族だったがいかんせん烏合の衆だ。それをまた我々日本人が教育し、共に闘っている。皮肉なものだ。
私はデモリションユニットと呼ばれる特殊な破壊工作に従事する部隊に入り、ワンカーから敵地であるマナプロウへと向かっていた。
まず、我々の前に立ちはだかったのはドーナ山脈だった。味方のある支配地域内を歩く序盤戦から、険しい地形が果てしなく続く。カレン州北部は、その中でも特に険しい地形だった。
例えば、大声を出せば向かいの山にいる相手と話せるのに、そこまで歩いていくと一日かかるといった具合であった。そのくらい谷は深く、傾斜は厳しかった。
しかも、雨期になると雨が激しくなり、泥で道はぬかるみ我々の足を止めた。米を作るのに必要な年間降水量が約1000mmと言われており、だいたい日本はどこの地域も年間1000mmを超えるが、この地域は多い時は月間降水量が1000mmを超える。
激しいアップダウンが延々と続く道なき道とうだるような蒸し暑さ、そして肩に食い込む装備の重さが体力を徐々に奪っていく。睡眠を妨げる蚊や昆虫は、鬱陶しいだけでなくいろいろな病気も運んできた。
我々はカレン軍の為に少しでも敵の足を止めようとマナプロウに向かった。
かつての日本軍が圧倒的な火力の前に敗走したのと同じことにならないように戦車が通れる橋を破壊するのだ。
1941年十月
私は一銭五厘の召集令状を受け取ると船倉に閉じ込められ、いきさつも告げられぬままに十一月に故郷を離れた。
一週間ほどして、初めて甲板に出るとカーッと太陽が照りつける。南へと向かっていることだけは分かった。
果たして硫黄島方面で米軍と対峙か、それとも八紘一宇の思想を実現する為に東南アジアへと向かっているのか?
考えても仕方のないことだ。軍隊は別名運隊とも呼ばれ、そこで生き延びることが出来るかどうかは運次第とよく言われた。
そこから更に南下を続けてフランス領インドシナに到着した。そこから西へ西へと歩を進めるとプノンペンを通過し、十二月八日にバンコクに到達した。
そこから北へと移送され、ピサンロープという町へと着く。ビルマと国境を分かつドーナ山脈が連なり、道なきジャングルが広がっていた。
山また山、山しかないその道なき道を進むこと約10日、我々はコーカレークへ殺到した。六個師団ほどモールメインにいた英印軍はびっくりした。何しろ突然、北方に日本軍が来たのだから。
小ぜり合う程度でマラントバッテン将軍率いる英印軍はアランカ山地を通ってインドへと退いていく。のちに「チャーチル給与」と呼ばれる物資を捨てていった。これが十七年三月ころと記憶する。
私の所属していた陸軍第十五師団は京都出身の強者ぞろいだ。花谷正中将師団長の盾、九州出身者を集めた牟田口廉也中将の菊と並んで桜と称し、深澤哲也師団長が率いる当時の日本陸軍最精鋭集団と呼ばれた。装備も良く、向かうところ敵なしだ。
私は初めから師団司令部に所属し、深澤師団長の右腕となって働いた。この勇猛果敢なる深澤師団長には一つだけ欠点があった。それは話を盛ることである。部下に与える訓示は常に舞台に士気を与え、向かうところ敵なしの大きな要因となっていた。近代戦であっても、士気は技術を凌駕する。どれほど射撃の腕前が高くても、小心者は怖くて引き金さえ引くことが出来ない。敵の射線から身を隠すことで精一杯であった。
そんな中で、深澤師団長の訓示は部下の士気を大いに上げ、我々に大きな力を与えてくれたのは事実だ。しかし、事実に反することはいけない。例えば、ある日の訓示で深澤師団長が「我々大和民族の作る武器は非常に優秀であり、どこの国にも劣るものではない。威力、連射速度共に世界一だ。その武器を目にして、震え上がっているのは我々ではなく、敵の方だ。自信を持って、私が号令を下したら、直ちに相手の銃火目がけて突撃せよ」とその日も勇ましく訓示をされていた。
訓示の際の師団長の目力は非常に鋭く、ある意味ではあちらの世界に行っている。それを聞く兵士たちもまなこを据えて師団長の話に聞き入っている。しかしながら、実は皇軍が使用している機関銃と敵方の使っている機関銃には違いがある。
皇軍の使用する機関銃は「どん、どん、どん」と力強くやや間をあけて放たれる。それに対し、敵方の機関銃は「ぱらぱらぱら」とスピードがあるから、演習と同じタイミングで飛び出すとやられる。
士気が技術を凌駕するのは事実だが、戦術もやはり必要だ。
そんな感じで我々は初期の頃は連戦連勝であった。戦車や鉄砲を大量に有し、更に空輸で好きなだけ物資が手に入る英軍に勝つには遊撃戦を展開するより他にない。
我々は厳しい地形と視界の開けぬジャングル、体力を奪われる高温多湿の気候を活かして英軍を苦しめた。
しかし、一つ問題があった。待てども待てども後方からの物資が届かないのだ。単純計算でこちらが一発銃弾を打てば向こうから十発返ってくるほどの差があった。
その後桜師団は英軍上陸に備えて南下した。西部ビルマのアキャブから、ベンガル湾に近いヘンサダヘ移動した。ここでの仕事はビルマ国防軍の育成である。ビルマ現地人装丁二千人を集めて訓練する。
私はその教育隊副隊長を仰せつかった。階級は曹長だった。ここで私は言葉の通じぬ相手でも根気強く教えることで、日に日に習熟度が上がっていることを目の当たりにして、教えることの面白さを感じた。しかし、そんな日は長くは続かなかった。
当時そこから5キロほどのところに師団司令部があった。私はある日所用があってそこを訪れた。ところが、司令部はどこか落ち着かない。どこかに動きを感じられた。顔見知りの人もどこかよそよそしい。なんとなく帰りそびれていると戦友の一人が「飯でもくってけよ」と言ってくれた。
教育隊に電話すると、向こうでも「夜は危険だから、司令部へ泊ったらどうか」と言ってくれた。腰を落ち着けて戦友と話し合っているうちに、深夜になった。そこに安田という大尉がやってきておもむろにこういった。
「ここ二、三日中に師団司令部は移動するぞ。ピンマナへ向け前進だ」
私には感じるものがあった。ピンマナでは前線から撤退してくる皇軍とそれを追う英印軍が激突し合う。ここで助けなければ、男がすたる。それに私はここまで深澤師団長と行動を共にしてきた。最後まで行動を共にした方が良い。
私は安田大尉に頼み込んだ。「私も是非加えてください」
しばらく、考え込んでいた安田大尉であったが重い口を開いた。
「悪いが私の一存では決めきれん。副官に頼むしかないな。印刷機にはまだ回されていないが、しかし・・・人員の差し替えは難しいぞ。明日の8時には印刷される。時間はもうないしな」
それだけ言い残すと、安田大尉は出ていかれた。
早朝5時、私は栗田副官の部屋を訪ねた。当然、まだ寝ておられる。しかし、私にそれを斟酌している余裕はない。戸を叩いた。
「誰か?」
不機嫌な声が返ってくる。当然だ。寝起きの一番気持ちが良い時を邪魔されたのだ。
「池上です。ピンマナに向かう部隊に加えて頂きたくて、参りました。どうか私も部隊に加えてください」
「おう、お前がおったか。すっかり忘れておった。しかし、ピンマナに行った方が良いか、ここに残った方が良いかは分からんぞ。英印軍は空路補給も完璧、戦車もM4ゼネラル・シャーマン中戦車を擁し、縦横無尽に動き回って友軍を苦しめておる。歩兵相手に75ミリ戦車砲を好きなだけ打ち込めるからな。それでも貴様行くか?」
「はい、深澤師団長と命運をともにできるのであれば、本望です」
「よかろう。貴様も男なら、祖国の為に桜となって散ってこい」
「ありがとうございます!」
命令書の列外に「給与係池上秀志」と書き加えられたのは、それから間もなくである。十一時過ぎ、謄写版に印刷された命令回報に、私は自分の名前が載っていることを確認した。
さて、教え子たちに恥じぬよう、私も勇敢に闘ってくるとしよう。
1944年3月15日
インパール作戦が発令さる。インパール作戦とは、一度は皇軍に敗戦し、インドのインパールまで敗走した英軍を三方向から追いかけて、インパールも奪ってしまおうという作戦であった。
この作戦は菊の牟田口廉也中将の立案である。しかしながら、あえて言おう。この作戦は無謀であったと。乾季に決行するならまだしも、時は雨季である。2000m級の道なき道、それもぬかるんだ山を踏破し、しかもその先で戦うなど無謀な話である。
陸上競技に例えるなら、450キロ先の試合会場まで野宿しながら走って移動して、そこでレースをしろというようなものだ。しかも、日本アルプスを越えてだ。武器や物資を牛馬に背負わせて、動けなくなったらそれを食料にすればよいというジンギスカン作戦が採用されたが、雨季で川の水も増しており、メンウィス河を渡るときに牛馬の半分が流されてしまった。もちろん、物資もそうである。
ただでさえ、物資が不足する中長距離の険しい山岳を越える行軍を強いられ、兵も牛馬も疲弊し、まともに闘える状況になかった。
現場の陸軍中将から本部に「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電されたほどであった。
皇軍は制圧地帯における補給さえ滞っていたのに、そこからさらにインパールへと450㎞の道のりを進んだのだ。当然、補給はない。対する英軍は空からの補給を好きなだけ出来る。それぞれ色分けされた落下傘から食料、武器、弾薬、医薬品、その他物資が届く、それらに応急手当を加えれば直ちに陣地を形成することが出来た。
皇軍も戦では負けていなかったが、何と言っても物資に置ける彼我の差は大きかった。たちまち、英印軍に敗れて敗走し、その道中でバタバタと栄養失調、餓死、マラリアで倒れてなくなっていった。しかもインドヒョウやハゲタカが弱った日本兵を次々とエサにしていった。日本兵は自らの食料がないどころか、食料にされていたのだ。
1944年8月12日、インパール作戦の末期になり、日本軍は銃を捨て、少しでも身軽になり険しいジャングルの中を撤退した。その後を英軍が追ってくる。我々の任務はそうして敗走した友軍を助け、英印軍を撤退するためにピンマナへと歩を進めたのである。
「撃て。撃て!」
深澤師団長の声が響き渡る。私たちは即席で作った塹壕の中から敵の銃火目がけて集中砲火を浴びせていた。
「敵を寄せつけるな!入り込まれたら、どうしようもないぞ。とにかく脚を止めろ!一番前のやつから片づけていけ」
深澤師団長の怒鳴り声が聞こえるが、銃声でその声はかき消されていた。
私も銃身が赤くなるほど撃ちまくっていたが、とにかく弾がない。一人一人狙いを定めて撃つしかないのだが、その間に敵は確実に前進してくる。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとはよくいったもので、敵が見境なく撃ってくる連射に私は恐怖を感じていた。一方で、いくらこちらが狙いを定めても向こうも激しい戦闘の中で動きまくっている。そう簡単には当たらない。
そして、あたったとしても・・・・
敵は次から次へと押し寄せてくる。一方で、我々の銃弾は尽きようとしていた。
「総員、撤退準備!出来るだけ多くの銃弾を携行せよ」
師団長から命令が下る。撤退のタイミングは難しい。遅すぎると部隊が全滅しかねない。
「撤退せよ!」
撤退命令が下ったとしても一目散に走り抜ける訳にはいかない。銃弾が飛び交っているのだ。敵に弾を射ち、ひるんだところで走り抜ける。その繰り返しだ。
しかし、そうやってある程度のところまで敗走したところで、弾丸が尽きた。走って逃げるには少しでも軽い方が良い。私は銃を捨てた。他の兵士たちも似たり寄ったりだ。兵隊であるにもかかわらず、敗走する際には武器を持たずに飯盒(はんごう)だけを携行しているものがほとんどであった。なんとも寂しい撤退だ。
私はこの過酷な状況において3つだけ携行し、あとは捨てた。
一つ目に自決用の手榴弾、二つ目に250000分の1の地図、私はタイのバンコクを目指した。そして三つ目は防蚊網(ぼうぶんもう)これは提灯のような形状のもので携帯用の蚊帳だ。この地域は悪性マラリアの媒介地で、多くの日本兵がマラリアでバタバタと死んでいった。
それだけ気をつけていても私はモールメインに到着するとマラリアにかかってしまった。
幸いそれほど症状は重くなかったが、念のため野戦病院で治療を受けた。そこは重症患者でいっぱいで半日ほど待たねばならなかった。
そして、ようやく私の番が来ると医者がこう言った「君も京都の出身かね。実は私もなんだ。同郷のよしみで話そう。実はここも危ない。今夜最後の列車が出るから、それに乗りなさい」
これが生き延びるチャンスだ!
そう私は確信した。私は泰緬鉄道を走り、バンコクへと向かう列車に飛び乗ろうとした。その時である。見慣れた顔がふと私の目に止まった。
「深澤師団長ではありませんか。ご無事でしたか」
「誰かと思ったら、池上か」
それだけ言うと、黙ってしまわれた。いつもの勇ましい訓示からは想像も出来ないような、傷だらけでボロボロとなっていた。顔は傷だらけで軍服には血がしみており、深澤師団長も武器を携行していなかった。
どれだけ大和魂があっても、武器もなく戦うことは出来なかったのだろう。
我々はそうして、バンコクへと向かったが、途中で列車が止まってしまった。故障らしい。修理する部品もないし、長時間同じところに止まるのは英軍の標的になるだけだ。私はすぐに動き出した。
その時、後ろから声がかかった。深澤師団長であった。
「池上、どうするつもりだ」
「ここにいては危ないですよ。夜が明けたら、空から