日常で走る人と非日常で走る人:走道に生きる人とそうじゃない人
- 池上秀志

- 1月15日
- 読了時間: 24分
更新日:2月8日
突然ですが、あなたは何のために走っているのかと聞かれて自信をもって答えられるでしょうか?
「自分が何のために走っているのかが分からない限り、絶対に速くなることはない」
これはオリンピックで2度の入賞を果たし、アジア大会や福岡国際マラソンでも優勝された中山竹通さんの言葉です。
あなたは何故自分が走っているのか、ご自身で分かっておられるでしょうか?
本日はそれを考えるにあたっての参考になりますと幸いです。
世間一般的には競技者と市民ランナーの二種類がいることになっています。競技者は結果を出す為に日々苦しい練習に励んでいる人たち、市民ランナーはただただ楽しみや健康の為に走っている人たち、これが世間一般的な区分ではないかと思っています。
しかしながら、本当にこの区分は妥当と言えるのでしょうか?
確かに、いわゆるファンランという楽しいから走っている、気持ち良いから走っている、気分転換に走っている、健康のために走っている、たまに気持ち良く走れればそれで良い、そんな人もいらっしゃいます、しかし、市民ランナーの中でもかなり真剣に記録の向上を目指して走っておられる方もかなりの数いらっしゃるのも事実です。
では、彼らは競技者なのでしょうか?
それもちょっと微妙だなと思っています。
何故ならば、競技者は厳しい競争に勝ち抜いた末に得られるものがあるからです。進路とか就職先とか女の子からモテるとか、周囲から尊敬されるとか、褒められるとか注目されるとか、テレビに出られるとか、お金が稼げるとか、色々得られるものがあります。
もちろん、そういったものを全員が手に出来る訳ではなく、寧ろ、ごく一部と言って良いです。しかし、可能性は誰にでもある、これは大きいと思います。
可能性は0ではない、これを言い出したら市民ランナーの方もそうです。しかし、市民ランナーの方は決してそこを目指している訳ではないです。サブ3やサブエガなど、この界隈では認められるものの、それで人生が大きく変わる訳ではありません。それでも、記録の向上を目指して日々コツコツと努力されている無数の方がいらっしゃいます。
また、もう一つの違いは良くも悪くも競技者というのは練習内容は指導者の方が立案し、それを決められた時間に決められた場所でみんなでこなすことになります。合宿もレースもすべて、決められたスケジュールをこなし、その手配などもすべて指導者やマネージャーさんがやってくれます。
実業団をやめてから新幹線のチケットの買い方が分からないという方もいらっしゃいましたが、私はなんとなくその感覚が分かります。遊びに行く暇も体力もほとんどない中で、試合や合宿の手配は全てスタッフがやってくれるので、分からないのです。
一方で、市民ランナーの方は基本的には練習計画の立案から実行、レーススケジュールを組み、移動や宿舎の手配などもすべて自分でやります。もちろん、練習も大抵は一人でやります。給水も自分で用意して摂る、それが基本です。
競技者界隈では「一人で30㎞走をやったとか40㎞走をやった」とかなると武勇伝にもなりがちですが、市民ランナーにとってはそんなことは普通のことです。
従来の区分における競技者にも市民ランナーにも当てはまらない、多数の方がいらっしゃるのが事実なのです。では、この競技者にも市民ランナーにも当てはまらない一群の人たちは一体何者なのでしょうか?
一体誰なのでしょうか?
本記事内ではそれを解き明かしていきたいと思います。
私が過去5年間で1000人以上の真剣なアマチュアランナーさんたちとお付き合いさせて頂いた経験と日本の風俗というものを照らし合わせると見えてくるものがありました。それを説明する前にまずは日本の風俗について少し説明させて頂きたいと思います。
日本という国はいつからあるのでしょうか?
この質問に回答するのは少し難しいです。日本は世界で最も歴史が古い国であると私は思っていますし、多くの歴史学者もそう思っています。何故ならば、ずっと長きにわたって国体というものが維持されてきたからです。
中国という国の歴史が古いと思っている方は中国史がよく分かっていません。
今の中国という国は中国ではなく、言ってみれば中国共産党です。我々日本人にはこの感覚は分かりにくいですが、中国の軍隊は中国という国の軍隊ではなく、中国共産党の軍隊なのです。
日本の自衛隊は日本の領土、領海、人命、資産を守るためのものですが、中国共産党の軍隊は中国共産党の為のものです。
また、中国人の感覚からすると、日清戦争は中国が負けたのではなく、清が負けたという感覚だそうです。
いずれにしても、国がずっと続いておらず国体というものが維持されていないのです。もちろん、物理的には今の中国の領土に該当するところはずっとあります。しかし、その土地を支配してきた歴代の王朝や政権や軍隊に一連の繋がりというものがないのです。
ドイツも長い歴史の中で、ドイツ第一帝国、ドイツ第二帝国、ドイツ第三帝国、東西ドイツへの分割、そして再統一と歴史が分断されています。オーストリアやチェコ、ポーランドなどは嘗てのドイツであり、特にオーストリアはバッハ、フロイト、シューベルトなどを育んだ地であり、アドルフ・ヒトラーもオーストリアの出身です。
ドイツ的なものが現在のオーストリア、歴史が分断されている訳です。
そもそもですが、欧米はほとんどが上層部は親戚同士で繋がっていたりして、繋がっているような、分断されているような、日本のような万世一系の脈々と受け継がれる系譜を持たないのです。
日本にはそれがあります。
日本がポツダム宣言の受諾にあたって何故国体の護持にこだわったのか、なんとなくお分かり頂けるのではないでしょうか?
では、それはいつから続いているのでしょうか?
公式には今年で2686年目を迎えております。初代の神武天皇が「兼六合以開都,掩八紘而為宇(六合(くにのうち)を兼ねて開いてもって都を開き、八紘(あめのした)を掩いて(おおいて)宇(いえ)と為す」と仰せられて奈良の橿原に都を開かれてから2686年です。
しかし、この数字には信ぴょう性がありません。こういうと怒られるかもしれませんが、15代の崇神天皇陛下まではだいたい100歳以上まで生きておられ、120歳とか130歳とか、中には150歳近くまでご存命であらせられた天皇陛下もいらっしゃり、2000年以上も前の医療や衛生や栄養状態で全員がその年齢まで生きたとは考えられません。
そうすると、考え得るのは替え玉のような人がいて、記録上は1代であるが、実際には3人くらいが交代で皇位を継承していたのか、もしくは天皇陛下の数はあっているが、実際の在位期間と寿命はもっと短かったのかという話になります。
後者の説が正しければ、日本の歴史は2686年よりも短いことになりますが、まあ公式には2686年です。
しかし、実際に日本という国が現在の北海道と沖縄を除く大八洲(おおやしま)を実行支配したのはいつ頃なのでしょうか?
これもどこをもってして実効支配をしたと考えるのかは難しいのですが、だいたい中央集権国家としての体を為すのは今から約1400年くらい前の奈良時代あたりと考えられるでしょう。
おそらく、そのあたりから特に日本人の民族性というものが育まれてきたのだと思いますが(その前からの連続性は当然ありつつも)、そうすると、日本人の風俗というものを調べてみますと、日本全国に共通してあるのが祭りなんです。
これは考えてみると凄いことです。今のように新幹線や飛行機や車に乗って全国を回ることが出来、全国を自分で回らなくてもインターネットや新聞やテレビで日本各地の祭りが見られる訳ではないのです。それにもかかわらず、だいたい共通した祭りの形というものをもっているのです。
では、祭りに共通のものは何か?
以下のものです。
・神輿や鉾、巨大な男性器など何か重たくて重いものを皆でどこかに運ぶ
・盆踊りや阿波踊りに代表されるように皆で踊る
・夜に行われることも多い
・重いものを運んだり、踊ったりするのに、太鼓や笛を吹いてタイミングを合わせたり、「ソーレソーレ」などの掛け声を合わせて息を合わせる
・酒やごちそうを皆で食べる
こういったことが行われる訳です。驚くほどに南から北までこういった共通点があります。これは日本という国の大きさを考えると驚くべきことです。京都から東京まででも歩いたり走ったりして1週間はかかります。青森から鹿児島まで行くと、1か月くらいはかかるのでしょうか?
それだけかかるとそもそもそこまで行こうと思いません。ほんの100年くらい前まで大半の人が故郷で生まれて故郷で死んでいったはずです。
にもかかわらず、上記のような共通点を抱えているのです。日本人に共通の感性や民俗性、風俗性というものを持っていた訳です。
では、その役割とは何であったのか?
主に三つの役割があったと考えられています。
一つ目は、こうやって皆で集団行動をすると、仲間意識や連帯感が芽生え、いざという時に協力体制が取りやすくなるということです。黒澤明監督の作品「7人の侍」という映画では、ある農村に不良の侍達が攻めてきて、このままでは食料も女もすべて取られてしまう、どうしようという時に7人の侍にお願いしに行くという映画ですが、こういうこともあったでしょう。
自分たちの村は自分たちで守らなければならない時代です。
また、そもそも農業というのは村単位で行われる面も大きいですし、簡単な土木工事なども自分たちで行うのが基本です。日常からいざという時まで、仲間意識や連帯感を持てる最低限のつながりを持つ儀式として用いられていたという側面が一つ。
二つ目には、男女の出会いの場となっていました。言ってみれば、マッチングアプリみたいな感じです。ここで男女が互いに惹かれあって結ばれあう訳ですが、夜に行われる祭りが多いのも夜の方が雰囲気が良くなるためでしょう。
また、村落というのはだいたい150人くらいが1つの単位になります。150人くらいの中で結婚を繰り返していると、だんだんと血が濃くなります。祭りでは外からのお客様も来るので、そういう時に外の血を入れるという工夫もなされていたそうです。
それから、三つ目は非日常の体験です。非日常の体験とは何か?
わずか数十人から数百人が無事に暮らしていくためには最低限の規則というもの、昔の言葉で言えば掟を守らなければならないこともあります。しかし、人間にはそれとは別にもっと動物的な、獣的な欲望というものもあります。
例えば、男の子と女の子を比べると男の子の方がおもちゃの日本刀とか木刀とかエアーガンとかそういう武器類を好む傾向にあります。
しかしだからと言って、けんかっ早いのは認められません。みんなが平和に暮らす為には、暴力は非常時を除いて認められません。しかし、非常事態において我々男は速やかに行動に移れるように本能の中にはきちんと暴力というものが組み込まれています。時にはそれを発散しないといけません。
また、現代社会でもむかつく上司がいても、直接的にそれが言えないというような場合も多いです。しかし、これは実は双方にとって良いことではないのです。
不満を抱え続けると部下にとってはずっとストレスになる、病気や離職や生産性の低下という原因にもなりかねません。
また、実は上司にとっても危険な状態です。最近は実力行使に出る人も減りましたが、昔は「お礼参り」と言って、何かのきっかけ(学生の場合は卒業式など)に、日ごろの憂さを晴らす為に徒党を組んで意地悪な上司や先輩や先生をぼこぼこにするとか、戦争中であれば「弾は前からだけ飛んでくると思うなよ」というようなことも言われていたそうです。
私の生まれた以降の時代はもっと平和ですが、それでも私が見聞した範囲内で言えば、先輩の使っているシャンプーに精子を入れたとか、先輩から使い走りを頼まれてもっていくカップラーメンに小便を入れたとか、腹が減ったからハムエッグを作って来いと言われて、ハムを一回自分のちんこに巻いてから出したとか、そういった類のささやかな抵抗というものはある訳です。
Z世代であれば、Xの裏アカウントで皆で吊るし上げるとか、そういうのもあるかもしれません。
しかし、今のように嫌なら仕事を変えれば良いという時代ではありません。嫌なら引っ越せば良いという時代ではありません。自分が生まれた村落で一生を過ごす以外の選択肢はほとんどない訳です。
好むと好まざるとに関わらず、その村落で暮らさなければならない以上は、そういった誰かが誰かに敵意や恨みを抱えているような状況は危険なのです。
それをどこかで発散させなければなりませんが、そういった鬱屈した日ごろの感情を発散するのが祭りの場なのです。何も直接的に、喧嘩したりする必要はなく、皆で汗だくになりながら、「わっしょいわっしょい」と叫びながら嫌なやつと一緒に神輿を担ぐとなんとなく「もういいや」という気持ちになるのでしょう。
あるいは酒を飲んで実際に日ごろは言えないようなことを面と向かって言ったり、取っ組み合いの喧嘩をしたりもしたと思います。そうやって感情を発散させ、また日常へと戻っていく訳ですが、こういったことを日本語では「水に流す」とか「禊(みそぎ)」と言ったりするのです。
水に流すとか禊(みそぎ)というとなんだか綺麗な感じがしますが、綺麗なやり方だけではなく、普段心の底にたまっている汚い感情を一度出してしまうことで、また日常に戻っていくという役割を祭りは果たしていたようです。そして、ここにあるのはお互い様という感情でしょう。
祭りという場を通して、皆がお互いに負の感情を出し合うのでお互い様なのです。そして、そのためにお酒を飲むというのもあるのでしょう。酒を飲んで素面じゃ言えないようなことを言う為の儀式という側面もあったのでしょう。
この風習は昭和になっても無礼講という形で受け継がれました。これは終身雇用が当たり前であった時代ならではの知恵だったのだと思います。
ただ、かつては無礼講や祭りの役割を果たしていた飲み会や慰安旅行がいつの間にか、上司が部下をいじめたり、セクハラをしたり、日常の延長もしくは日常以上に酷い部下いじめの場になってしまったことから、姿を消すようになったのではないかと思います。
では、そうやって非日常の空間が消えていく昨今ですが、非日常という空間はなくなったのでしょうか?
そうではなく、寧ろ多種多様な非日常の空間が出来たと言って良いと思います。
甲子園球場で大騒ぎをする阪神ファン、クラブやキャバクラ、カラオケ、競馬、様々な非日常の空間が出来ました。
ちなみにですが、スポーツというものの発展にはファンの熱狂、つまり非日常の空間を提供するという役割があった訳ですから、私はあまりファンの方に紳士淑女であることを求めるべきではないと思います。
かつてのように球場にビール瓶や座布団が投げ込まれ試合が中断するとか、混乱した野次馬たちがグランドになだれ込み選手に暴力を振るうというような事態になれば少しやりすぎですが、しかし、選手を野次るとか、叱責するとか、多少の罵声を浴びせるとか、そういった部分も残しておかないと、スポーツが大衆に受け入れられにくくなり、また社会全体としてもたまった鬱憤はどこかで歪みを生んで社会を歪にさせるだけだと思います。
私自身は反論はしますが、ユーチューブなどに来るアンチコメントも一種の浄化作用があると思っており、反論はするけれども受け入れています。私のユーチューブにアンチコメントを書くことで、それが一種の憂さ晴らしになって明日の活力になるのであれば、それで良いと思っています。
もうお分かり頂けたと思いますが、マラソンというのは参加型のお祭りなのです。スポーツ観戦はプロ選手がプレーしているのをみながら、一所懸命応援したり、ヤジを飛ばしたりして、原始的で動物的な感情を発散させる場なのに対して、マラソン大会は自分が参加し、体を動かすことで、内なる原始的で動物的な感情を発散させる場なのです。
各地で開催されている練習会やタイムトライアル、小さな大会もそのうちの一つですし、あるいは週末しか走らないような人にとっては一人で走る時間さえも非日常の空間なのです。
私の中には二人の方の印象に残る言葉があります。
一人目の方はウェルビーイング株式会社宴会部長の道下秀樹様のお言葉です。道下様は「マラソンの魅力は数千人、数万人が一斉にゴールに向かって同時に走り出すことにある、こんなスポーツは他にない」とおっしゃっていました。
もちろん、そのタイムには大きな差があるのですが、しかし、全員が同時に出発して、同じ道をたどり、同じ場所にたどり着くのです。これは壮大な祭りであると言って過言ではないでしょう。
もう一人の方はバリバリのエリートサラリーマンの方なのですが「週末に100キロ走ることが楽しみで仕事を頑張れる」とおっしゃっていました。普通に聴けば、平日仕事で頑張って、週末はさらに重労働かい?と思ってしまうのですが、これも週末に非日常があるからこそ、日常が頑張れるのでしょう。
こういったことを考えても、やはり多くの市民ランナーの方にとって長距離走、マラソンは祭りであると言えると思います。祭りの本質、それは内なる動物的な感情や欲求を爆発させる場であるということです。
また、日本の各地の農村につきものであったのが乱交です。乱交というか、その日は夫婦以外で交わることがお咎め無しだったのです。夫婦愛しあっていてもたまには別の人と交わりたいと思うのは人間として普通のことです。しかし、それを野放しにしてしまうと秩序が乱れます。だから、祭りの日だけはお互い様ということでそういうことを認めていた訳です。
そして、これは農村だからこそ成り立つ話でもあります。何故ならば、当時の村は好むと好まざるとに関わらず、運命共同体だからです。そこで生まれて、一生そこで過ごしてそこで死んでいくのが普通の社会だったのです。
そこで生まれてくる子供は村の子供として皆で育てたので、あんまり誰の子供みたいなことが問題にならない訳です。
また、せいぜい数百人が1つの村落であれば、疫病の流行で一気に人口の半分くらいは消し去られることも可能性としてはある訳です。そして、人口の半分も減ったら、小さな村は存続自体が危ぶまれます。
それを避けるには多種多様な遺伝子が必要なので、なるべく異なる遺伝子と遺伝子を混ぜ合わせた方が良いのです。
当時はもちろん遺伝子などという概念はありません。しかし、昔の人は経験的にあまり血が濃くなりすぎると良くないとか、あるいは手洗いが大切だとか、あまり人と人が接触しない方が良いとか、そういう知恵は持っていた訳です。
日本人は神社で手を洗い、握手をせずに礼だけし、ハグも愛し合う男女の間や祭りくらいでしか身体的接触はありません。欧米文化とは異なる文化は生きていく上での知恵として育まれてきたと言われています。
また、科学的にも恋愛感情が続くのは3年程度とも言われています。つまり、子作り期は3年程度で終わり、そのあとはもっと落ち着いた愛の時期、子育て期に入っていく訳ですが、農村では男の子=労働力です。2分の1の確率で男の子が生まれてくることを考えると、子供の数は多い方が良いのです。
こう考えると、たまには組み合わせを変えて村全体の出生率を上げることは合理的なのです。
農村の性に対する観念は大らかであり、生存の為の知恵というものがあった訳ですが、武家社会ではそうはいきません。武家あるいは商家には跡継ぎ問題というのがあります。誰が誰の子供がはっきりとさせておかなければなりません。この時に男女の違いというものが生まれます。
男が複数の女性と交わっても誰と誰の子供かすぐに分かります。しかし、女性が複数の男と交わってしまうと誰と誰の子供か分からなくなります。ですから、武家や商家では一夫多妻なのです。もちろん、甲斐性(金銭力と責任感)があればの話です。下級武士や商売下手な商家にはそんなことは出来ません。
以上から考えると、現代社会では大会と同時に乱交パーティ的なものを設けるのは難しいでしょう。現代社会では村の子供は皆の子供という時代ではありませんから。
ただし、地方のロードレースなんかは予め結婚相手を探したい若い女性たちを集めておいて、同じく結婚相手を探したい男性のうち、上位入賞者のみを選定してレース後に合コンの場を設けたらどうかと思ったりします。そういう風にしておけば、男も日々の練習を頑張るだろうし、上位に入ればカッコよく見えますから、縁談もまとまりやすくなるのではないでしょうか。
地方行政が主体となって、地元の新聞に記事を取り上げてもらえば話題にもなるでしょう。最近は日本好きの外国人も多いですから、外国人の移住も生まれるかもしれません。
低賃金な労働者を募る為に無理に移民政策を進めるよりもこういった自然な形での労働者確保を試みた方が長期的にみて問題がないでしょう。
非日常で走る人々はこんなところです。なんとなくお分かり頂けたと思いますが、大半の市民ランナーの方は非日常で走る人々です。マラソンを4時間前後かけて完走するような、あるいは5時間くらいかけて完走するような一群の人々です。
中には6時間や7時間かけて完走するような人もいますが、計算上は大半歩いていることになります。しかし、非日常だから楽しいのでしょう。
では、私の有料講義を受講するような方々はどうか?
この一群の人たちにとっては走ることは日常です。つまり、非日常ではなく、うちなる動物的で獣的な感情を発散する場ではないのです。寧ろ、求められるのはその対極のものです。勉強、戦略、規律、こういったものが求められます。真に人間らしい人間性というものが求められると言って良いです。
そして、こういったものを段階的に身に着けることによって人格が磨かれます。人格が錬磨されていきます。
こういった概念、日本になかったでしょうか?
そうです、道という概念が日本にはあります。柔道、剣道、空手道、茶道、華道というものがあります。
道がつくものとスポーツの違いは、スポーツは勝利を目指したり、商業的であったり、娯楽として行うものですが、道がつくものはそうではないということです。もう一つ言えば、道というものがつくものは人格の錬磨、自己成長を目指すものですから、終わりがないのです。
スポーツはかつて活躍した指導者が自分は指導する側に回って選手にあれやれこれやれと指導をしますが、道がつくものは師範と呼ばれる人が力が衰えたあとも道着をきて、道場に立ち続け、実演もします。
このように考えると、競技者がやるのはスポーツ、大半の市民ランナーの方が走るのは祭り、そして、真剣に走る市民ランナーの方にとっては走道ということが出来ると私は考えています。
では、走道に生きる人は何のために走るのでしょうか?
競技者は報われる可能性は極めて低いけれども、勝ち抜けば報われるものがある、祭りで走る人はそもそもが楽しい、走道で走る人は何が待っているのでしょうか?
それは進歩の喜びです。進歩というのはただ単に試合での記録が向上するということだけではありません。試合での結果にはすぐにつながらなかったとしても、出来なかったことが出来るようになること、日常生活で疲れにくくなったなと感じること、最近体が引き締まってカッコいい体に(あるいは綺麗な体に)なってきたなと感じること、知識が増えること、体の感覚が研ぎ澄まされること、自己規律能力を身に着けること、自分に自信が持てるようになること、頭で分かっていたことが体で理解出来て腑に落ちること、このすべてを意味します。
人間は物欲で幸せになるには限度があります。まあそういう意味で言えば、ある程度のところまでは金で解決できるのは事実です。ある程度のところまでは物欲で幸せになれますから。これを私は否定しません。
しかしながら、収入もある程度は人間的な力に比例します。ですから、やはり収入を増やすにも長距離走、マラソンは非常に良いスポーツです。
しかし、ある程度のところまで収入が増えてしまうと、もうそれ以上は物欲で幸せになるのは難しいです。
また、物欲は加齢とともに衰えていくものでもあります。それに加えて、物欲というのは手に入れた瞬間が頂点であるという問題もあります。アルファフライは履いて走っている時ではなく、家に届いた瞬間が喜びの頂点です。
それに対して、進歩や向上には終わりがありませんから、ある意味では喜びが永続的に続くのです。
また、日常を極めた人、つまり走道を極めた人というのは日常と非日常の区別がなくなります。段々と人間としての本能が芽生えると、人間としての本能が強くなり、獣的な本能との調和が取れるようになります。そうすると、日常と非日常の区別がなくなり、常に自然体で生きられるようになるのです。
道を極めた人というのはそれがどんな分野であれ、変な力みというものがありません。
あなたの周りにも飄々と常に自分の世界に生きているような人がいないでしょうか?
普通なら断れないような上司からの誘いも平気で断れるような人です。そうかと思うと、誰に言われなくても職場の共用スペースを自ら進んで掃除が出来るような人です。人から嫌われたらどうしようとか、逆に人に好かれたいとかそういうのがなく、自分が正しいと思ったことを自己規律によって淡々とこなすような人です。
あるいは面白いと思ったら腹の底から笑い、不正が行われていると思ったら本気で怒るような人です。そして、怒ったかと思うと、また何事もなかったかのように優しくなるような人です。
日常と非日常が一体化しているので、そこに歪みや軋轢や煩悶というものがない自由闊達な人です。こういう人、最近少なくなりましたね。陸上界にも昔はもっといたような気がするのですが。
政治家にも昔はハマコーさんのような人、最近だと麻生さんのような人がいらっしゃいましたが、最近は減ってきたように思います。と思っていたら高市総理が誕生しました。アメリカではドナルド・トランプ大統領が誕生しました。トランプ大統領はやっぱり日本人とは違いますから、だいぶアメリカ人だなとは思いますが、ある意味では自由闊達で囚われることがない人だと思います。
陸上界にも昔はそんな人がたくさんいらっしゃいました。普通の指導者というのは酒が入って酔っぱらったら、芸能人で誰までなら抱けるとか、この前ベルリンマラソンの付き添いの時にFKK(売春宿)に行ったとかそんな話になるものですが、私の恩師の中島道雄先生は酒が入っても「俺は日本をダメにしたのはマッカーサーやと思う。マッカーサーは日本人に自由だけ教えて、責任を教えなかった。自らの責任を果たしてこその自由であるのに、マッカーサーは責任を教えずに自由だけ教えて責任を教えなかったから日本人はダメになった」とそんなお話をして下さったものです。
高校生からそんなお話をお伺いしていたら、ちっとはマシな人間になるというものです。
自分が32歳になったせいもあるとは思いますが、歳だけ重ねて子供っぽい指導者が増えたなと思います。昔は競技者に接しながらももっと走道の精神を教えてくださる人がいたような気がするのですが、今は競技だけが発展しているような気がします。競技が発展すること自体は良いことなのですが。
そういう目で見ると、市民ランナーの方の練習会やSNSでたまに勃発するマウント合戦も実にくだらないことだと思わないでしょうか?
走道に生きる人は日常と非日常が一体化し、日常の中に勉強、戦略、規律というものを柱に置き、それでいながら自分の内なる動物的な欲求にもしっかりと目を向け、必要に応じて適切な形で日常の中で発散させていく、自由闊達で何物にもとらわれない自由な心を手に入れ、日々進歩し続ける自分の中に喜びと幸福を見出していきながらも、身に着けた人間力で収入を増やし、必要に応じて物欲を満たしながら、余ったら誰か困っている人にやってしまう、そんな日々の中に幸福を見出せるようになるのが最終ゴールと言えるでしょう。
サブ3やサブエガはこの界隈では評価されるのは事実ですが、それで進路や就職先が決まる訳でもなければ、賞金が出る訳でもありません。その先に何があるのか、それが分かっていないと絶対に速くはなれないと言ったら言い過ぎでしょうか、言い過ぎですね。でもまあ、おおむねそんな感じです。
補足説明
少し誤解を与える恐れがあるので、念のために解説させて頂きますが、祭りとして走る人と走道として走る人が対立する訳ではありません。はっきりと祭りとして走る人、はっきりと走道として走る人がいる一方で、両者を兼ね合いながら走る人もいらっしゃいます。
これは競技者として走ることと走道として走ることを兼ねて走る人、競技者として走ることと祭りとして走ることを部分的に重ねながら走る人がいるというのと同じです。最近の速い男子高校生はほぼ100%関東の私大に行きますが、競技者にとっては箱根駅伝が日本で一番大きな祭りだからでしょう。
お知らせ
皆様のおかげでケニアの恵まれない子供たちに小麦粉108kgと米25kgをお届けさせて頂くことが出来ました。本当にいつもありがとうございます!!


また実はケニアからの直接私が現地に足を運び、厳選直接交渉の末に販売させて頂いている高級紅茶ケリチョゴールドですが、仕入れ費の高騰、燃料代の高騰による輸送費の高騰、円安のトリプルパンチに見舞われておりまして、直近は赤字で販売させて頂いていたのですが、次回の仕入れ分から活動の継続が可能になるように送料税込みの5000円で販売させてください。
それでもケニアの外国人向けの5つ星ホテルに置いているような高級紅茶が1杯50円でお楽しみ頂けます。また、内容量が1箱100袋となっておりまして、1か月で消費出来る方も少ないので定期購入も廃止し、その都度無くなったらお買い上げいただければと思います。
1回の出費は紅茶の割には高いかもしれませんが、1杯50円あるいは毎日1杯飲むとしても3か月持つ計算になるので、実はそれほど割高ではありません。
紅茶が好き、特に苦めの「これぞ紅茶!」という味がお好きな方や「ミルクティーにして飲むから元々の味は苦めの方が良い!」という方は是非こちらをクリックして詳細をご確認ください。

























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