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調整の科学

 突然ですが、あなたは調整という概念を聞いたことはありますでしょうか?


 おそらく、職場の上司に無理やりエントリーされて仕方なくスタートラインに立ったか、北朝鮮に拉致されて昨日日本に帰ってきたというのでなければ聞いたことはあると思います。


 調整というのは、レース前に練習の負荷を落としてレースでの記録の向上を狙うものです。昔からの有名な言葉というか、ことわざ的になっているものには「最高の記録を出すためには最大限の練習をしなければならない。しかし、最高の記録を出したい時には最大限に練習してはいけない」という言葉があります。


 これは本当に真理で、選手としての経験としても指導者としての経験としても、練習とレースを両立させることは不可能です。絶対に無理です。


 良い記録を出したいのであれば、段階的に練習の外在的負荷を増やしていかなければなりませんが、まさに今記録を出したいとかレースで勝ちたいという時には外在的負荷を落とさなければなりません。


 世の中そういうものなんです。


 とは言え、世の中そういうものだと思われているけれど、実際には違ったということも往々にしてある訳ですが、これを科学の世界はどのように捉えているのでしょうか?


 本日はそれをさらっと紹介させて頂きます。


 先ずは2018年のスコブガードらの長距離ランナーを対象にした実験からいきましょう。この実験では調整期間18日間のあと10㎞のタイムトライアルを実施しました。結果は有意な記録の向上、最大酸素摂取量の60%ペースにおけるランニングエコノミーの向上が確認されました。


 2014年のハグらによるマラソンランナー21名を対象にした実験においては、記録の向上及び安静時心拍数の低下、高強度練習直後の最大心拍数の増加、血中乳酸濃度の18%の低下が確認されました。


 分かりにくいところもあるかと思いますので解説させて頂きますと、先ず第一に、安静時の心拍数の低下は心筋、つまり心臓の筋肉の出力が増大したことを示唆します。


 そして、高強度練習直後の最大心拍数の増加ということですが、これは実質練習中の心拍数のことだと思ってください。ただ、一つ留意して頂きたいのは、練習中の心拍数、つまりまさに走っているその時の心拍数を記録できるようになったのはつい最近の話であることです。


 2014年当時も一応心拍計はありましたが、普及はしておらず、走り終った直後に手で脈をおさえて心拍数を測っていたのです。


 とは言え、2014年であれば心拍計は研究機関にはあったはずですが、昔の研究結果と比較するためにそういった手法が取られたか、あるいは普段の選手のトレーニングに反映できるように手動で測ったのか、あるいは単純に研究者が心拍計を持っていなかったか、いずれかだと思います。


 科学の進歩は観測器具の進歩でもありますが、昔はそれなりの研究機関にいかないと取れなかった記録が、現在は個人レベルでも計測可能な時代になったので、ある意味では誰もが研究者になれる時代と言って良いでしょう。


 それで話を戻すと、最大心拍数の増加ときくとそれを悪いことだと思ってしまう方もいらっしゃるかと思いますが、それは間違いです。同じペースで走った時には心拍数は低い方が良いのですが、全力を出し切った時には心拍数は高い方が良いのです。


 理由は二つあり、先ず第一に、心臓の筋肉も筋肉です。1分間の心拍数が高いということはそれだけ最大筋力が高いということなのです。つまり、調整によって心臓の筋肉が向上したのです。


 第二に、人間というのは体調が悪いと限界まで追い込めないものなのです。体には防御機構がありますから、体調が悪い時は早めに体が動かないように中枢神経がストップをかけるものなのです。体調が良くないと、最大心拍数あたりまで追い込めないものなのです。


 ある強度における血中乳酸濃度の低下については説明するまでもないでしょう。


 次は2019年のコスタらによる28日間から56日間のランナーを対象にした実験です。本実験では練習の負荷を波状に(負荷を落としたり上げたりしながら全体的に負荷を落とす)落とした群と線形で(比例の関係性で)練習の負荷を落とした群に分けました。


 結果は波状に負荷を落とした群の方では最大酸素摂取量の22%の上昇、最大血中乳酸濃度の12%の低下、赤血球量の6%の上昇、コルチゾールに対するテストステロン値の上昇が確認され、線形に負荷を落とした方の群においては、最大酸素摂取量の11%の増加、最大血中乳酸濃度の35%の低下、赤血球量の2%の増加、コルチゾールに対するテストステロン値の低下が確認されました。


 説明しなければならないのはコルチゾールに対するテストステロンの比でしょう。コルチゾールというのはストレスホルモンです。ストレスホルモンというのは頑張る時に必要なホルモンで、分泌されなければならないものですが、過度な負荷が心身にかかり、休息モードに入れなくなると、安静時においても高くなってしまうのです。


 テストステロンは男性ホルモンで闘争心、向上心、意欲といった心理的なもの、それから生理的な機能の両方を司ります。男女ともにテストステロンは持っており、肉体的なパフォーマンスを最大限に発揮するには(おそらく、知的なパフォーマンスやビジネスにおいても)とても大切なホルモンです。


 ところが、過度に疲れて来たり、体調が悪くなるとテストステロンの分泌量が減少するのです。オーバートレーニングや慢性疲労症候群の特徴の一つにテストステロン値の低下が挙げられますが、このことからも体調が悪くなるとテストステロン値が減少するということがお分かり頂けると思います。


 そんな訳で、コルチゾールに対するテストステロンの比率がその人の体調を測る一つの指標として使われるのです。


 さて、実験の方に話を戻すと、波状に練習の負荷を落とした群の方が、線形に負荷を落とした群よりも良い生理的変化が生じているのは、調整期間が28日から56日と長いことが理由だと私は考えています。


 4週間から8週間という期間は、私の経験上もちょっと調整期間としては長すぎます。その為、線形に練習の負荷を落とした群、すなわち一定の割合で練習の負荷を落とし続けた群の方はいくらか走力の低下が生じたのでしょう。調整によるプラスと走力の低下によるマイナスが相殺し合った結果であると私は考えています。


 とは言え、どちらもプラスの結果にはなっています。


 2014年のムラチらの21名のクロスカントリーランナーを対象にした実験では有意に8㎞走のタイムが向上しました。


 2007年のマックニーリーとサンドラーの実験では調整によって最大で70%のクレアチンキナーゼの減少が確認され、2000年のチャイルドその他の実験、1994年フリンらの実験、1996年ムヒカらの実験でも調整によるクレアチンキナーゼの減少が確認されています。


 クレアチンキナーゼまたは血漿クレアチンキナーゼまたはCKとかCPKと呼ばれるものは筋損傷の度合いを示すものです。この値が下がったということは、筋肉が順調に回復していることを示します。


 しかしながら、2021年のコールマンらの実験では調整によるクレアチンキナーゼの減少は確認されませんでした。ただし、この2021年のコールマンらの実験には一つ留意すべき点があります。それはトレーニング量は減らしたけれど、質の高いトレーニングを実施したことです。また、調整期間も10日間と比較的短いという点も留意すべきでしょう。


 シェプリーらの1992年の実験、ニアリーらの1992年の実験、2003年の2回の実験、2005年の実験、ムヒカらの2004年の実験では骨格筋内の酸化酵素の数が増えていることも確認されています。


 骨格筋内の酸化酵素の数が増えると何が起こるかと言いますと、要するに酸素を使ってエネルギーを生み出す能力が向上した、俗にいう有酸素能力の向上が生じたということです。


 さらに、1985年から2012年までに発表された研究結果では調整の効果として以下の生理学的、心理学的変化が生じたことが確認されています。


・競技力の向上


・練習後の疲労回復時間の短縮


・最大酸素摂取量の向上


・ミトコンドリア内の酵素の活性化(コハク酸脱水素酵素、シトクロム酸化酵素、筋原線維のアデノシン三リン酸アーゼ、ベータヒドロキシカルアセチルコリンさん脱水素酵素などなど)


・たんぱく質合成の増加


・筋力の向上


・筋グリコーゲン量の増加


・筋繊維の機能の向上


・遅筋繊維の出力の向上


・筋繊維の収縮速度の向上


・テストステロン/コルチゾール比の向上


・安静時の心拍数の減少


・最大努力時の血中乳酸濃度の上昇


・換気性閾値における走行速度の増大


・オーバートレーニングのリスクの減少


・血漿クレアチンキナーゼの減少


・活力や気力の増大と疲労感の減少


 この中で解説しなければならないのはミトコンドリア内の酸化酵素の活性化、たんぱく質合成の増加、筋グリコーゲン量の増加、最大努力時の血中乳酸濃度の上昇でしょうか。


 先ず一つ目のミトコンドリア内の酸化酵素の活性化ですが、これは酸素を使ってエネルギーを生み出す力が向上したということであり、言ってみれば有酸素能力の向上です。


 たんぱく質合成の増加は回復過程が順調にいっていること、回復速度が向上していることを指し示しています。我々の体は常に物質を分解しながら合成することで成り立っています。常に、分解しながら合成することで、生命を維持し、トレーニングして走力が向上するのもこの分解と合成の過程の中で生じます。


 そして、体内の様々な物質がたんぱく質から構成されておりますので、その合成速度が速まったということは疲労の回復が速まったということです。


 しかしながら、我々の体内にはたんぱく質以外の様々な物質があり、そのうちの一つが筋グリコーゲンです。我々が食べた食べ物はそのまま直接的にエネルギーとして使われるのではなく、一度食べ物を分解し、それを再びグリコ―ゲンというものに合成して、筋肉と肝臓に貯蔵しておくのです。


 筋グリコーゲン量が増加するというのも回復の過程が順調に進んでいることを指し示すものです。


 最後の最大努力時の血中乳酸濃度の上昇ですが、同じペースで走っているのであれば血中乳酸濃度は低い方が良いです。


 一方で、全力で走った時には血中乳酸濃度は高いところまであげられる方が良いのです。特に、このことは中距離ランナーにおいては非常に重要です。


 使っている測定器具が異なるので、厳密な比較はできませんが、私がこれまでトレーニングで記録した最大の血中乳酸濃度は16ミリモルです。


 一方で、私の母校の京都教育大学に西日本インカレで1、2,3フィニッシュを果たした強い中距離ランナー3名がいるのですが、3名とも計測不能という値を出しました。計測不能ということは最低でも25ミリモルまで上昇しているということです。


 やっているトレーニングが異なるので、それもありますが、普通の人間はいくら追い込んでも25ミリモルまで上昇しないものです。中距離ランナーはどこまで高い血中乳酸濃度に耐えられるかも重要な要素であり、5000mや10000mのランナーにとってもラストスパートがかかるかかからないかを考えると、非常に大切な指標となるでしょう。


 あとは活力ややる気の増大と疲労感の減少という心理的要素も挙げられていますが、私としては寧ろ逆に考えたく、やる気の増大や疲労感の減少といった心理的変化が生じるまで練習の負荷は落とさないと駄目だと考えています。


 この心理的変化が生じないようであれば、練習の負荷の落とし方が十分ではないか、調整期間が短すぎるか、もしくはその両方でしょう。


 という訳で、今回は調整の科学をお届けさせて頂きました。最後に、もっと具体的に調整練習ってどうやれば良いのか学びたいという方にお知らせです。


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 深澤は過去4年間で4人の滋賀県チャンピオン、日本一一人を育て上げている名コーチで、自身もマラソンで2時間半を切っています。チャンネル登録者数44000人のティラノのらんラボチャンネル総支配人としてご存知の方も多いかと思います。


 募集の締め切り日は本日となっており、京都マラソンのように締め切り日を過ぎてから再募集するというようなことは致しませんので、ちょっと興味があるという方は今すぐこちらをクリックして詳細をご確認ください。

 
 
 

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筆者紹介

​ウェルビーイング株式会社代表取締役

池上秀志

経歴

中学 京都府亀岡市立亀岡中学校

都道府県対抗男子駅伝6区区間賞 自己ベスト3km 8分51秒

 

高校 洛南高校

京都府駅伝3年連続区間賞 チームも優勝

全国高校駅伝3年連続出場 19位 11位 18位

 

大学 京都教育大学

京都インカレ10000m優勝

関西インカレ10000m優勝 ハーフマラソン優勝

西日本インカレ 5000m 2位 10000m 2位

京都選手権 10000m優勝

近畿選手権 10000m優勝

谷川真理ハーフマラソン優勝

グアムハーフマラソン優勝

上尾ハーフマラソン一般の部優勝

 

大学卒業後

実業団4社からの誘いを断り、ドイツ人コーチDieter Hogenの下でトレーニングを続ける。所属は1990年にCoach Hogen、イギリス人マネージャーのキム・マクドナルドらで立ち上げたKimbia Athletics。

 

大阪ロードレース優勝

ハイテクハーフマラソン二連覇

ももクロマニアハーフマラソン2位

グアムマラソン優勝

大阪マラソン2位

 

自己ベスト

ハーフマラソン 63分09秒

30km 1時間31分53秒

マラソン 2時間13分41秒

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